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十五 変の変(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

円陣を組んだ江東軍は、今日を死に場所と戦った。

全員が、項将軍を守るために人間の楯となった。
もとより楯も甲(よろい)も持っていない、兵卒たちであった。彼らは敵に向けて右肩を出し、互いに抱き合いながら背中で敵の攻撃を防いだ。敵兵の剣戈が、そのまま男たちの肩に突き刺さった。それでも、彼らは耐えた。
呂馬童や項荘たちが、兵卒たちの間から馬を走らせて、敵に当る。その勢いに、一瞬敵は怯む。だが、それもつかの間の反撃であった。秦兵は、またも包囲の輪をぐいぐいと狭めて来る。
押して、返す。
押して、返す。
血みどろの、戦いであった。秦兵もまた、錦繍の将を討ち取らなければ罰せられる。秦の軍法は、彼らにとって絶対であった。彼らはどんなに楚兵に逆襲されても、くじけることがなかった。
「うおおおおおおお!」
項羽が、血の匂いに喚(おめ)いた。
「あっ!将軍!」
項荘が、言葉を掛ける間もなかった。
彼は馬を走らせて、円陣から飛び出した。
「この私は、敗れること莫(な)し!」
項羽は、剣を激水の流れのようにうねらせた。
たちまち、秦兵の首が十數個飛んだ。
項羽は、首を刎ねた兵の体を片手で持ち上げ、秦兵に思い切り投げ付けた。
秦兵の群れが、どうと倒れた。
その空隙に項羽は馬を割り込ませ、さらに数十人を葬った。
「弩兵!弩兵!撃てっ!」
後衛から指揮を取る王離将軍が、目指す錦繍の将が飛び出したことを知って、すかさず命じた。
錦繍の将の恐るべき強さに、秦兵はいつしか彼を遠巻きにして囲んでいた。
乱れた動きの中で、おそるおそる弩兵が前に進んだ。
ふるえる指で、引き金を引いた。
矢は飛んで、項羽の頬の間近をかすめた。
「、、、ちいっ!」
第二、第三の矢が飛んで来た。
項羽は、間一髪で避けた。
だが、矢の数はどんどん増えて来た。
項羽に当らないのが、不思議であった。
勢いを増す矢数に、項羽は下がらざるを得なかった。
「将軍!、、、危ない、後ろへ!」
呂馬童が駆け寄って、項羽を引き戻した。
退却の際に、彼は矢を肩に受けた。
「うぬっ、、、!」
「おっ!、、、痛いか!」
「なんの!」
彼は、当った矢を直ちに引き抜いて捨てた。
こうして一時の危機は去ったが、秦軍の強烈な包囲は変わることがなかった。
江東軍は、味方が倒れれば別の者が円陣の隙を埋めた。だが、いかに勇戦しても、その絶対的な人数には限りがあった。
あと一押しで、秦軍の勝利であった。
項羽は、滅亡の寸前にいた。そしてそれは、楚の滅亡をも意味していた。
その頃。
秦の包囲網の外周が、にわかに騒がしく乱れた。
「あっ、、、何だ?」
「何?、、、敵か、、、いや、、、うわっ!」
野狼のような獣の群れが、秦軍に外から襲い掛かって来た。
軛(くびき)を横に渡して、三、四頭が一体に繋げられていた。後ろには、油をたっぷり含ませた松火(たいまつ)の火が結わえ付けられてあった。獣どもは、後ろの火を恐れて前に向けて突進し、囲む秦軍に突入したのであった。後から後から、火を引きずった群れが殺到して来た。
「野狗か、、、、おのれ!」
野狼のように見えたが、よく見ると狗(いぬ)であった。
秦兵は、繋げられた狗を剣で叩いた。
すると、軛が簡単に外れた。衝撃で外れるように、仕掛けが施されていたのであった。
解き放たれた狗どもは、秦兵に襲い掛かった。
「や、、やめろ、やめろっ!」
秦兵は火を持った群れの突進に驚き、次に噛み付く狗に翻弄された。それが、包囲のあちこちで起こった。秦軍は、予想もしなかった突然の事態に、掻き乱された。
「何をしているかっ!攻めぬかっ、、、攻め、、、うわあっ!」
慌てて兵を叱咤していた蘇角将軍の馬にも、狗が噛み付いた。馬が、動転して暴れ始めた。蘇角将軍は、もう少しで振り落とされるところであった。
向うの尾根の上に一人の男がいて、戦況を眺めていた。
「― 趙の狗は気性荒く、ほとんど野狼に等しい。人を見れば、すぐに噛み付く。項羽が秦兵を集中させたおかげで、効果が倍増したよ。」
陳平は、策が予想以上に当ったことで、満足して腰を降ろした。
彼は鉅鹿の城市に潜り込み、籠城のための食糧に当てていた狗の残り全てを借り受けたのであった。陳平は右丞相の張耳を説き伏せて、狗の扱いに手馴れた城中の狗商人を集めさせた。陳平は彼らと狗を率いて、前日密かに戦場に赴いた。そして、最も効果的な参戦の時を待っていたのであった。
「昔、斉の名将田単が、火牛の計を用いて燕を破った。その顰(ひそみ)にならって火狗の計としゃれ込んで見たが、、、ははは、美的でないな。戦史に書残すことは、ためらわれるよ。」
陳平は、頭を掻いた。
あと一歩で勝利するべきであった秦軍は、陳平の計によって最も大事な時を逸してしまった。
こうして、戦場の流れが変わった頃。
楚軍の援兵が、うなりを挙げて秦軍を襲った。

          

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第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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