«« ”十四 旭日の刻(2)” | メインページ | ”十五 変の変(2) ”»»


十五 変の変(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

戦場の様相は、刻刻と変化していく。

戦っている兵卒たちには、今敵味方がどのように有利不利であるのかなど、分かりはしない。ただ目の前に現れる敵兵を倒すか、あるいは恐怖心が勝って逃げるか。それだけしかない。
だから、自軍に対する信頼は、重要であった。
このとき秦兵には、戦えば必ず報われるという秦軍の組織に対する信頼があった。この信頼があるからこそ、秦兵たちは打ち続く連戦にも耐えてきた。
加えて将の章邯は、戦い続ける兵に対して十分な食を用意することにも抜かりがなかった。大掛かりな甬道まで作ったのは、戦の手駒である兵卒を食わせるという基本的な必要のためであった。それは馬に餌を与えるのと全く同様の、組織運営上の原則であった。秦軍は、組織を合理的に運営することについて、卓越していた。
それに対する楚軍は、食の供給すらなかった。敵は強大で、戦って勝てるかどうかもあやしかった。
それなのに、兵卒は秦兵以上に勇戦していた。
その理由は、これまで誰も見たこともない将の姿が、彼らの上に現れたからであった。項羽は、どの将ともまるで違った。彼は、たった一人で万人に当れるほどに突出した個性であった。その上、彼は常に兵卒と共にいた。兵卒と共に労苦することを喜び、兵卒たちと心を寄せ合うことを楽しみとした。若く繊細な魂を持った彼だからこそ、できる心意気であった。兵卒たちは、この将に酔い痴れた。今日の戦場での兵卒の常を越えた働きは、全く項将軍と彼らが心を共にしていることに、由来していた。
現在楚軍は、どうやら渉間将軍の部隊を圧倒しているようであった。楚軍には、ほとんど形がなかった。右から左から攻め寄せ、正面の奥深くに入り込んで敵を倒す。隊列を整えた秦軍の集団は、四方八方から食われて行った。まるで、肉塊を蟻の群れが食い尽くすかのような姿であった。
あと一押しで、渉間将軍の部隊は溶け去ってしまうかのように思われた。
「よし。この方面は、勝った!この勢いで、残余の敵も討つ!」
項羽は馬を走らせながら、隣の呂馬童に言った。
呂馬童は、常に項羽の隣にいた。項羽の馬術に付いていける男は、楚軍多しといえどもただ一人彼だけであった。
「将軍が向かえば、必ず敵は崩れましょうぞ!」
呂馬童は、声を弾ませた。
そのとき。
項羽の馬が、激しくいなないた。
馬は、まるで驚いたかのように、棹立ちとなった。項羽は、手綱一本で馬の動きを抑えた。
「おっ?」
項羽は、右方向を見た。
先日引き倒された甬道の跡が、ゆるやかな尾根を伝って続いていた。そこに、秦兵が見えた。兵馬の数は、続々と増えて行った。次々と、甬道の跡を渡って駆け下りてきた。
「― 援軍か。向うから来たとは、都合が良い。」
項羽は、不敵に笑った。
しかし、呂馬童は言った。
「― 左からも!」
「なに?」
左方向からも、同様に秦兵が近づいて来た。大軍であった。
呂馬童は、今の自分たちの置かれた状況を直ちに悟った。
「いかん!、、、江東軍、集結だ!集結!」
呂馬童は、馬を蹴り上げて全速で走らせた。広く展開した江東軍に対して、集結するように叫んで回った。
項羽の姿は、秦兵たちにとって遠目からでもはっきりと分かった。王離・蘇角両将軍の部隊は、章邯からの命を受けて各々の戦場から離脱した。直ちに軍を転身させて、渉間将軍の戦場に急いだ。錦繍の将を目掛けて、全兵を進ませたのであった。
江東軍は、急いで項将軍のもとに駆け戻った。
「項将軍を、守れ!守るのだ!」
呂馬童が、絶叫した。項羽の周囲に、江東の子弟たちによる円陣が作られた。
だが、敵の進撃は急速であった。あまりに無秩序に展開しすぎた江東軍は、項羽のもとに戻るのに手間取った。敵軍が殺到したとき、多くが円陣を囲んだ包囲の外に、弾き出された。円陣に参加できたのは、江東軍の半数でしかなかった。
「将軍!将軍っ!」
小楽は、弾き出された兵の一人であった。彼は、呂馬童の必死の叫びを聞いて、慌てて戻った。だか、彼は項将軍の居る所から遠くに進み過ぎていた。彼の見る向こうには、すでに秦軍が大集結している姿があった。
残された江東軍は必死に将軍を救出しようとしたが、秦軍の壁は楚兵の突進力をも凌いでいた。
「将軍を、お守りできないなんて、、、私は何て、何て愚かな奴なんだ!」
小楽は、自分の責ではないにも関わらず、自分を責めた。
「― 勝った!」
章邯は、項羽への包囲が完成したことを見て、哄笑した。
さすがに、秦軍の組織力であった。王離・蘇角の両将軍の部隊は、章邯からの命を受けると迅速に戦線を離脱した。楚軍には真似のできない、集団の動きであった。直ちに軍吏を通じて、錦繍の将一人の首が、本日の戦の賞であることが指令された。
「錦繍の将を殺さぬ限り、全員を罰する。だが錦繍の将を討ち取った者は、一国の王に封建されるであろう!」
この破格の賞罰を聞けば、秦兵は目の色を変えるより他はなかった。
錦繍の将の姿は、兵が進む目標とするのにあまりに分かりやすかった。集結は、急速に行なわれた。秦兵は、項羽を囲む江東兵を、強烈に攻め込んでいった。
「何万人来ようが、構わぬ!殺せ!殺せっ!」
項羽は、大音声で兵たちを叱咤した。
「もう、逃げられぬか、、、!もはや、戦うのみ!」
呂馬童、項荘ら項羽の旗本が、腹を据えた。
「ついに、ここまでか、、、!」
江東以来項羽に着き従って来た、桓楚も円陣の中にいた。彼は、これまで項羽の奇蹟に驚きづくめであった。だが、ここでついに進退窮まったと感じた。
「項将軍の奇蹟も、秦軍には敵わなかったか、、、」
桓楚は、斬っても斬っても現れる秦兵の集団に囲まれながら、無念の諦めを感じていた。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章