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十四 旭日の刻(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

弩(いしゆみ)は、中国文明が発明した古代の恐るべき新兵器であった。

練度の低い兵でも扱うことができる機械仕掛けの弓矢は、戦場の質を変えてしまった。
限られた技能者が弓矢を射る時代には、弓術は貴族が独占していた。弓術は士大夫と呼ばれた貴族階層が学ぶべき六芸(りくげい)の一つに数えられ、『論語』にも記されているように優雅な礼儀作法を伴った特権的な技芸であった。
だが、弩の登場によって、古き良き時代は終わった。戦場の弓矢は、兵卒に大量の弩を与えて一斉に運用し、物量によって敵を叩く時代となった。この戦場には、もはや士大夫の居場所はない。軍隊は王の官吏である将軍と軍吏たち、それから徴発された多数の兵卒から編成されることとなった。軍隊の編成の変化と共に、当然戦場からはいにしえの時代の礼儀作法が消え失せた。今や戦場は、むきだしの力が衝突する、容赦のない生存競争の場へと変わった。
一斉に放たれた秦軍の矢は、真っ直ぐに突入する楚兵に飛来した。
たちまちに、兵がばたばたと倒れた。
驚くべきことに、何と楚兵の多くは甲(よろい)すら着けていなかった。全速で鉅鹿まで駆けるように指令した項羽は、中途で着いていけなくなりそうな兵を見かけたときに、構わず甲を捨てるように命じた。
「― 甲などは、一時の矢防ぎとなるに過ぎない。お前たちの真の強さは、その手と足だ。敵に向けて一散に走り、敵に対して必殺の刀を突く。この勢いこそが、お前たちを守るだろう。今は敵に向けて、駆けることだけを考えよ!」
将の言葉を信じて、多くの兵たちが甲を道の中途で投げ捨ててしまった。そのために、鉅鹿の戦場に現れた楚兵たちは、大半が防具も着けていないまるで蛮兵のような集団であった。規定により整然とした軍装に身を固めた秦兵とは、すでに似ても似つかぬ軍隊であった。
そのような無防備の兵卒に対して矢の雨を浴びせ掛ければ、たちまちに敵は崩れ去るべきであった。
じじつ、矢を受けた兵たちは、確実に射殺されていった。
ところが、どういうわけか楚兵の突撃は、衰えていなかった。
いま戦場全体を眺めると、常とは違う現象が起こっていた。
楚兵たちの一人一人が、秦軍を殺さんとしててんでばらばらに敵に向けて進んでいた。その動きは、全くの無秩序であった。だがその無秩序のために、兵が全体で見ると前後左右に広大に展開する結果となった。そのため、集中して浴びせ掛けた矢の多くが、兵に当らない結果を生み出した。その上、甲を着けぬ兵たちの動きは、敏捷であった。致命の矢が飛んできても、間一髪で避ける幸運な兵が相次いだ。
「― まだ生きている、まだ生きている、、、」
小楽は、突撃しながら秦の矢が通り過ぎるのを横目で眺めていた。彼もまた、少年で体力が足りずに行軍の中途で甲を失っていた。彼は、無意識のうちにすでに幾本もの致命の一撃をすり抜けていた。しかし必死の小楽が、そのことに気付くはずもなかった。
結果として、楚兵は散兵隊形を取っていたのであった。項将軍を信じて戦う高い士気と、偶然に甲を捨てた身軽さが為し得た斬新な戦闘隊形であった。こうして、秦の放つ弩の雨は全体として通り抜けられてしまった。
楚兵が、秦軍の先頭集団に倉らい付いた。白兵戦が、始まった。
乱れた白兵戦となれば、圧倒的に楚軍が有利であった。秦軍は、次々に食われていった。
「騎兵っ!騎兵を出せっ!、、、」
楚兵に斬り込まれた自軍を見て慌てた渉間将軍は、後衛に控えた騎兵に左右から敵を挟み込むように命じた。
騎兵は、戦車と同様に歩卒を馬の力で蹴散らす点が利点であった。強制的に徴発されただけの臆病な農民兵ならば、馬の集団が走って来ただけで恐れて怯む。馬というれっきとした猛獣を用いて敵を圧倒するのが、秦軍の騎兵戦術であった。
だが、秦の騎兵たちもまた、これまでの戦闘とは敵の動きが違うことを、発見した。
常の戦場ならば、馬が横殴りに進んだときに、敵の歩卒たちは乱れる。乱れたところを、騎兵と直協する味方の兵が、討ち破っていった。こうして進んでは押し、進んでは押しと続けることによって、敵は追い込まれて潰れるのであった。
だが、今日の楚兵は、騎兵の突入にも崩れなかった。
楚兵たちは、浮き足立つ一歩手前で、踏み留まることに成功した。彼らの心の奥底にある何かが、常とは違う動きを引き出した。踏みとどまらせたのは、将への信頼感だったのであろうか。いや、むしろ項羽将軍と共に生死を賭けて戦っているという、絶対的な一体感のなせるわざであったに違いない。
やがて踏み留まったとき、楚兵たちは騎兵を集団で包囲すれば、それほどの脅威ではないことを発見した。
馬は猛獣であるが、噛み殺す力はない。その上、存外に臆病であった。兵が立ち向かって一斉に剣や戈を付き立てれば、怯むのはかえって馬のほうであった。騎兵たちは、至る所で包囲されて戸惑い、ある者はついに馬上から引きずり下ろされて楚兵の嬲りものとなった。秦軍の常識は、ここでも覆されてしまった。
「押せ!押せ!」
項羽は、虞美人から贈られた錦繍の袍(ほう)を打ち掛けて、自らも戦場で斬り回った。彼の美装と超人的な馬術は、戦場でいやが応にも光り輝いていた。彼が戦闘の場に来ると、敵は恐怖した。味方は、十倍にも勇躍した。そして、彼が進むところ秦軍は崩れ落ちていった。もはや、楚軍の勝利は間近いように思われた。
章邯は、戦地で最も高い丘陵の上に、陣を敷いていた。
眼下には、彼の予想を超えた戦況が広がっていた。正面の渉間将軍の軍は圧倒され、あとしばらくもすれば壊走しそうな不利であった。
「― あの、錦繍の男、、、」
遠く離れた章邯の立つ地点からも、戦場を縦横無尽に駆け回る将の姿が見て取れた。
「あれが、項籍か。」
章邯は、一瞬沈黙した。
その直後、はたと膝を叩いて、立ち上がった。
「王離、蘇角の両将軍に伝令!、、、各正面の戦場を離れ、江東軍に当れ!全軍で、錦繍の将、ただ一人を狙え!」
章邯は、楚軍のこの強さが、奇蹟の男項羽一人に由来しているとはっきり見て取った。
いかなる犠牲を払ってでも、この将を討ち取らなければならない。
「― 錦繍の将を討ち取った者には、身分に関わらず一国を与えると、告げよ!」
もはや、章邯はこの戦の勝敗が項羽の首一点に掛かっていることを、見て取った。そのため、後のことなど気にもせず、巨大な褒賞を約束した。
「何と無防備に駆け回っていることよ、項籍!、、、万余の兵で、おまえ一人を囲んでくれるわ!」
章邯は、笑った。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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