«« ”十三 戦場(2)” | メインページ | ”十四 旭日の刻(2) ”»»


十四 旭日の刻(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

章邯は、楚軍が突如として現れたという報を棘原で聞いた。

「うぬっ、、、!」
今度こそ彼は、不意を突かれた。王離将軍の兵が手もなく撃退され、甬道が破壊されたことを聞いたとき、彼は楚軍の真意に気付いた。
「― 大胆な、兵だ、、、敵ながら、見事であるよ。」
章邯は、敵を賞賛した。しかし、顔は少しも喜んでいなかった。
続いて前線から送られて来た報告により、敵軍はほとんど楚の総軍であるらしいことが見て取れた。
「これほどの数を、わずかの間に移動させるとは、、、これは、宋義ごときの為せる業ではない。楚は、新たな将を得たか!」
やがて楚を率いる将は、項籍であると分かった。彼は宋義を斬って軍権を奪い、予想もできぬ速度で駆け付けた。まさに疾きこと、風の如くであった。それは、章邯得意の用兵をそのままに写したかのような、鮮やかさであった。章邯は、これまで項梁の甥でただの一猛将に過ぎないと見なしていた先入主を、入れ替えざるを得なかった。
章邯は、敵が捨て身で突入して来たことを、今はかえって恐れた。ただの無謀なる暴兵であるならば、秦軍の組織力に敵うはずもない。しかし、今の敵は兵糧の用意すらせず来たために、食を奪わんとして力の限り甬道を破壊して回る。それは、秦軍の包囲戦を危くしてしまう。
「計算された、無謀なのか、、、おのれ、項籍!」
章邯のところには、このとき東からの報もまた入っていた。
斉では、将軍の田都の離反に加えて、追放された斉王の一族である田安が蜂起した。両者は斉を分割して、河水(黄河)を渡って楚軍に合流しようとしている。
これに加えて、北から来た燕軍と、趙の陳餘軍があった。章邯は、秦軍が逆に包囲されつつあることを知った。
章邯は、戦うより他はなかった。
敵が全て集結する前に、楚軍を全力を持って打ち砕く。
これが、彼の選択であった。
このとき、章邯は戦略的に撤退するという道を選べなかった。
咸陽にいる者どもには、大局的な視点から一歩引くという考えなど、到底理解されるべくもなかった。中丞相の趙高の命令には、賊を直ちに片付けて国の出費を減らす視点しか、存在しなかった。彼らにとっては、遠い戦場での駆け引きなど、時間と国庫の浪費にしか見えなかった。
こうして戦うことしか許されていない条件の中で、章邯は戦うという選択を取った。彼は、秦の精鋭ならば勝てるはずだと、思った。予測もつかない将に率いられた敵と決戦することの不確実さを、念頭に置かなかった。置くことが、できなかった。それは、彼らしくもない過ちであった。
彼ならば、孫子兵法のこの言葉を、深く理解しているはずであった。

― 彼を知りて己れを知れば、百戦して殆(あや)うからず。彼を知らずして己れを知れば、一勝一負す。彼を知らずして己れを知らざれば、戦う毎に必ず殆し(謀攻篇)―

敵を知らなければ、自軍をよく使うことができても敗れることがある。章邯は、敵を知らずして、決戦に追い込まれてしまった。彼は、項羽と同じ賭けの場に引きずり出されてしまったのであった。項羽が、章邯をその立場に置かせた。
彼は棘原から出て、王離・渉間・蘇角の三将軍を直接の指揮官として置き、自らは総軍の監督となった。
戦場は、鉅鹿の南。
秦軍は、定陶以来再びその威容を野に整えた。

対峙するのは、楚軍であった。
両者ともに大軍であるので、戦場となるべき土地は広く展開されていた。
楚軍の最先鋒にあるのは、もちろん江東軍であった。
項羽は、その江東軍のさらに先頭にいた。総軍を統帥する上将軍が全軍の先頭にいるなど、これまでの中国の戦史で聞いたこともなかった。
項羽の青銅の盔(かぶと)が、朝陽を受けて光っていた。ひときわ大ぶりの甲(よろい)の上に打ち掛けた袍(ほう)は、色もあでやかな錦繍の作りであった。今日、初めて着けた。虞美人が、出陣のときに彼に渡したものであった。
(― これを、戦場に持っていきなさい。でも見せるべき時に、見せなければだめだよ。これは、あなたが輝く時の衣装なのだから―)
虞美人の、項羽への言葉であった。
彼女が手渡した錦繍の袍は、あまりにも華やかに過ぎた。それで、苦難する兵卒たちを思いやって、彼はこれまで着けることがなかった。しかし、今日の彼は、これを着けるべきであると思った。飛雲の文様が鮮やかに縫い取られた錦繍の袍は、遠くからもはっきりと見て取ることができた。彼は、項羽という男がここにいるという事実を、敵にも味方にも示したのであった。
(― 馬が、物足りない。)
項羽は、このとき彼女のことを思い浮かべようとしたのに、なぜか足元の馬のことを思ってしまった。
(私の望む動きのためには、これまで乗ったどの馬も不足だ。もっと良い馬は、ないものだろうか、、、?)
項羽が今騎乗している馬は、楚軍でもひときわ大きな駿馬であった。彼と同じ大男の黥布から、上将軍の持ち馬として贈られた。黥布は自分の馬の中から、一番力の強い馬を選んで彼に贈った。だが、それでも項羽にはまだ不十分であった。彼の力のほうが、馬に優ってしまっていた。項羽は、自分と対等に動くことができる馬が、欲しかった。
そのようなことを思っている間に、秦軍の姿がはっきりと見えて来た。
(叔父上は、彼らに敗れた、、、だが、私は負けぬ!)
敵軍から、軍鼓が響いて来た。
敵の最前線にいる弩兵たちが、一斉に動作した。
「進めーーーーい!」
項羽が、ここで大発声した。
軍鼓の合図すら掻き消す恐るべき響きが、味方はおろか敵の戦場にまで届きわたった。
楚軍が、雄叫びと共に突撃を始めた。
そして、同時に秦軍から豪雨のような矢が、飛んで来た。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章