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十三 戦場(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

甬道への攻撃は、翌日も続けられた。

包囲の軍に対して繋げられた道は、複数あった。一本が断たれても、すぐに補給の道が途絶えるわけではない。
ゆえに、項羽は甬道が全て集まってくる中心点に、あえて楚軍を飛び込ませたのであった。包囲戦が行なわれている鉅鹿の間近に突入して、甬道から甬道へと破壊を続ける。無茶苦茶な作戦であったが、成功すれば確かに敵を追い詰めることが可能であった。成功すれば、のことであるが。
秦軍は、敵が今日はどこに行こうとしているのかが、皆目分からなかった。それで、王離は甬道の全てに兵を張り付かせるより、他はなかった。敵の意表を突いた攻撃に、兵を分散させてしまったのであった。強兵といえども、分散すればその守りは薄くなる。秦軍は、楚軍の猛攻にまたも敗れた。今日もまた、兵卒たちは甬道の一本を突き崩した。
外からの侵入者に当るべき渉間・蘇角の部隊は、思わぬ困難に直面した。
現れた敵の情報を受け取って、彼らの部隊は敵を襲撃しようとした。しかし、彼らの前に立ちはだかっていたのは、他ならぬ甬道であった。将軍たちは、鉅鹿附近で密に張り巡らされた甬道に遮られて、部隊が思うように展開できないことを発見した。
「― 甬道が、わざわざ敵に防塁を与えているようなものだ。ここまで鉅鹿の近くに潜り込むとは、、、何という戦い方をするのか!」
渉間・蘇角は、敵に勝てないことに足を踏み鳴らして憤った。
都合九度、楚軍は甬道を破り、現れた秦軍を蹴散らした。
楚軍の華である江東の子弟たちは、戦って一度も敗れることがなかった。
甬道の破壊は、さらに続けられた。
しかし、もはや秦軍は現れなくなった。
今日もまた、派手に壁を打ち倒した。なのに、日が暮れるまで秦軍の影も見えなかった。
戦場は不気味なまでに、楚の一方的な破壊に終始した。
「― ついに、奴ら怖気づいたか?」
江東兵の一人が、言った。最近の勝利で、ますます意気上がる男であった。
「― いや、これは、、、」
もう一人の、彼より少し懐疑的な男が、意見を言いかけた。しかしその後の言葉が、続かなかった。

「章邯は、一挙の殲滅を狙っている。それで、配下の将軍にこれ以上応戦することを止めさせたに違いない― 大会戦が、近い。」
韓信は、言った。今夜も、野営の陣中であった。
「章邯を、ついに戦わざるをえなくさせた。思い通りさ。」
呂馬童が、言った。
韓信が、続けた。
「だが、今度こそ敵は全軍を持って来るだろう。これまでの戦とは、違、、、」
言い掛けた時、陣中にずうううん!という音が、響いて来た。
遠くからの、音であった。
別の方向からも、崩れるような音が聞こえてきた。
あちらからも、聞こえてきた。
次に響いた音は、陣中のほんの近くから聞こえてきたように、思われた。
「― これは!」
韓信たちは、陣営から駆け出した。
「す、、、すごい、、、」
彼の横にいた小楽が、外の光景を見て、呆然とした。初めて酒を飲んだかのような、酩酊する気分であった。
周囲の野に張り巡らされた甬道が、次々と煙を上げて倒されていた。
甬道に沿って、作業のために延々と火が灯されていた。楚軍は、まるで火の列に包囲されているかのようであった。
「大したものだ、、、秦軍とは。」
韓信は、うめいた。秦軍は、夜のうちに甬道の壁を次々に壊していたのであった。戦場を、確保するためであった。
「章邯は、野戦をするつもりだ、、、定陶のように。」
彼は、以前の定陶の戦を思い出した。秦軍の、あの圧倒的な強さが脳裏に思い返された。項梁をわけも無く葬った秦軍の精鋭が、再び現れようとしているのであった。
項羽もまた、壁の崩れる光景を目の当りにしていた。
しかし彼は、その光景に他の将卒たちとは違った印象を持っていた。
「来たか、、、秦軍。私は、これを待っていた。」
全ては、彼の思い通りであった。甬道を断って、秦軍を包囲の堅陣から引きずり出す。これまで傍若無人に破壊をして回ったことによって、秦はついに立ち上がらざるを得ないところに追い込まれた。
「野戦になれば、五分と五分。楚が勝つか、秦が勝つか。これから、天下を継ぐ者が決められるのだ!」
これが、項羽が行なった計算であった。彼は、野戦ならば今の士気挙がる楚軍に十分な勝機があると判断していた。その士気を作ったのは、項羽その人であった。彼が自軍を鍛え、彼が敵を戦場に誘い、そして彼が敵をおびき寄せる。それが、彼という一個の天才がこの時描いた絵であった。そして彼の絵は、最後の部分を描く段階に進もうとしていた。
夜が明ける時刻が、次第に近づいて来た。
すでに、楚軍は会戦の態勢に入っていた。誰一人、眠っていなかった。眠れるはずも、なかった。
小楽も、眠っていなかった。
彼もまた、江東軍の一兵卒として、今は秦との決戦に臨もうとしていた。
昨晩、韓信は彼に言った。
「ここまで来たら、もう何も考えるな。生きるか死ぬかは、天の為すことだ。明日の一日が終わった後に、共に生き残っていることを、祈ろう。」
小楽は、韓信に答えた。
「はい!」
その後、韓信は言った。
「― 私は、これから行かなくてはならない。」
小楽は、聞いた。
「どこへ?」
韓信は、答えた。
「今の我が軍に足りないことを、私はしなければならないのだ。」
そう言って、彼は陣中を去って行った。
「― じゃあな、小楽!」
韓信は、去り際に少年ににこりと微笑んだ。
(天か、、、よくわからないや、韓郎中。)
小楽は、隊列の中に立ちながら、明け染め始めた空を見た。
澄んだ赤い空を眺めると、何となく浮き立つ気分になってしまった。
(天か、、、変だな。何だか、気分がいい。)
小楽は、一人かすかに笑った。
このとき項羽は、諸将たちを後ろに控えて、平原の向うを凝視していた。
遠目に、確かに人間の整列した集団が見え始めた。
黒づくめの甲(よろい)は、秦軍のそれであった。
「来たか、、、」
項羽は、満身に闘志が湧き上がって来るのを、感じた。
彼は、台上に立って、軍に向けて大発声した。
「― 全員に告ぐ。今日、生きていられると思うな!この俺を、信じて戦え!命、尽きるまで!」

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章