«« ”十二 退路は要らぬ(2)” | メインページ | ”十三 戦場(2) ”»»


十三 戦場(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

冬の朝が、明けようとしていた。

趙の平原の中に、楚軍があった。
「すでに、諸君らのための食は、尽きている―」
項羽は、兵卒に向けて言った。
食がない以上、今日を限りで全員が死である。項羽は、そのことを兵たちに隠しもしなかった。
「― これより、我が後に従え。出陣!」
そう叫んで、項羽は馬に飛び乗った。
「うおおおおおお!」
項羽は、暁の気をひっくり返すような雄叫びを上げて、駆け下りていった。
「ひああああっ!」
兵卒たちが、吶喊(とっかん)して後に続いた。すでに、彼らは狂気の集団と化していた。
将が駆けて行った先にあったものは、秦軍が築いた甬道であった。
遠目には、地平線に見えた。
近づくほどに、それが人工物であることが明らかとなった。
さらに近づくと、それは人の背丈を大きく越えた、防塁であることが見えた。延々と続く、土を固めた甬道であった。このような巨大な構築物を平原の只中に作り上げた秦軍もまた、狂っていると言ってよかった。狂気と狂気との、衝突であった。
「食糧は― あそこだ!」
項羽は、目の前の壁を見て叫んだ。
彼は、壁に体を馬ごとぶち当らせた。堅牢な土壁が、衝撃で揺らいだ。
「この壁が、奴らの生命線!、、、これを崩せば、干上がるのは奴らだ!」
項羽は、兵卒に土壁を破壊することを命じた。
「壊せ!壊せば、食への道が中に開いているぞ!生きるために、崩せ!」
項羽の大音声が、全軍に響いた。
わああっ!と、兵たちが壁に取り付いて行った。彼らは手に手に刃を持って、甬道を崩し始めた。
死のぎりぎりにまで追い込まれた兵は、おそるべき集団の力を発し始めた。
高く厚く築かれた土の壁は、最初は入れる刃を拒んだ。さすがに、秦軍が築いただけあって、堅牢であった。兵たちは、手を血まみれにしながら掘った。
「今日一日で、生きるか、死ぬか― ええい!」
韓信は、甬道を崩す兵たちを監督する役目であった。だが彼もまた、自らも刃を持って必死に甬道を崩していた。
河を渡ってから一直線に進み、この甬道に取り付いたところまでは、全くの奇襲に成功していた。
「秦軍は、まだ現れない、、、まさか章邯も、我らがこのような用兵をするとは思わなかっただろう。」
体力には自信のある、彼であった。だが、壁は崩しても崩しても揺るがないように見えた。
「掘るしかない。掘るより、明日はない!」
韓信は、手から幾筋もの血をたらしながら、それでも壁に取り付いて崩していった。
すると時が経つに連れて、各所の壁が剥がれ始めた。
剥落はやがて窪みとなり、窪みは次第に深くなっていった。
やがて、刃が向こう側に通った。
「― 崩れた!」
やはり、壁は十分に固まっていなかった。韓信の、予測した通りであった。
ついに、甬道の一角が大きく切れた。一箇所が切れると、別の箇所も続いて切れた。
彼は、甬道が切られたことを見て、すかさず兵たちに命じた。
「― 時を置くな!甬道を、占拠せよ!中に向けて、進め!」
命を受けて、兵卒どもが雪崩を打って甬道の奥に突進して行った。
そのとき。
韓信の背後から、大集団の叫びが沸き起こった。
韓信は、振り返った。
「秦軍!来たかっ!」
異変を知って、秦軍が駆け付けて来たのであった。
壁を崩す部隊を守っていたのは、江東軍であった。
「― 後は、江東の者どもの勇戦に、任せるのみ!」
韓信は、祈るばかりであった。
やって来たのは、王離旗下の一部隊であった。
秦軍は、鉅鹿のすぐ近くにいきなり楚軍が現れたので、不意を突かれた。それで、王離は楚軍現るという報を受け取って、緊急に現場に撃退のための部隊を派遣して来たのであった。だが、王離は来襲したのが楚の総軍であったとは、このとき夢にも思わなかった。
江東軍は、秦軍と遭遇戦を演じて、これを破った。今日の死を賭した江東の兵たちの勢いに、秦軍は圧倒された。秦軍は、甬道の破壊の現場に近寄ることすらできずに、敗走を余儀なくされたのであった。
江東軍が敵を撃退した間に、甬道は占拠されていた。そこは、包囲の秦軍に兵糧を送るべき輜重の部隊の通り道であった。楚軍は甬道を通って秦の部隊を襲い、兵糧を奪い取った。
こうして、奇襲は成功した。
楚軍は甬道を崩し、あと一日を生きるための食を奪ったのであった。
日暮れの中で楚軍は、万歳を叫んだ。
こうして、一日目は終わった。
「― だが、これは始まったばかりだ。」
韓信は、夜の野営の陣で、周囲の者たちと話していた。
野営の陣では、今日奪った食糧が取りもあえずに支給されていた。捕獲した馬ですら、食材と化していた。煮るための器は、秦兵から剥ぎ取った甲(よろい)であった。
「― さすがに、秦の甲はよく出来ているな。煮炊きの器にすら、なるよ。」
呂馬童が、笑った。
韓信は、言った。
「今日のような戦いを、あと何回か続ける。そうすると、秦軍は甬道を切られて食を断たれるために、立って我らを討伐せざるをえなくなる。秦の総軍が我らの前に現れたときが、本当の決戦だ。そこで勝たなければ、意味がない。」
座には、小楽もいた。
彼は、今日の激しい戦を体験して、今だにその衝撃で体が熱くなっていた。
殺すか殺されるかの場に、彼は初めて立ったのであった。
小楽は、韓信に言った。
「― 勝てますよね。私たちは、これからもずっと、勝てますよね、、、!」
韓信は、言った。
「― 我らは、勝つために全てのことをしている。後は、天が勝たせてくれるだろうよ、、、天が、楚に味方すれば。」
そう言って、韓信は、小楽ににこりと微笑んだ。
陳平が、立ち上がった。
「さてと― 私は、この辺で退くことにしましょうか。」
全員が、彼を見た。
「退く?」
陳平が、言った。
「壁に穴を開けたりするのは、君子たる私の為すべきことではありません。退いて、別のことを用意しに参ります、、、では!」
そう言って、彼は座から去った。その後彼は、陣中からも立ち去ってしまった。
「、、、ふん!嫌な奴だ。」
呂馬童が、飄然として去った陳平に、鼻を鳴らした。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章