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二十二 騅馬の騎士(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

進んで来たのは、一見すると通常の秦兵であった。

しかし、陣形がこれまでとは、全く違っていた。
「― 魚鱗の陣、、、いや、違う。」
韓信は、最初それを兵法に言う魚鱗の陣形であるかと、思った。
だが、それにしては個々の兵が隙間無く密集していた。兵たちは、互いにほとんど肩を寄せ合うまでに接近して、方陣を作っていた。一つの部隊につき、ざっと縦横十六名。最前列の者は楯を構えて、前からの攻撃を防いでいた。楯の隙間から、長大な槍が突き出されていた。後列の者は槍を斜めに立て、同じく楯を持って次々に控えていた。この方形の部隊が、歩調を整然と合わせて隊形を崩さずに進んで来たのであった。
「まるで、、、宮廷の、群舞の隊ではないか。これほど整然と進む陣形など、見たことがない。」
韓信は、思った。
敵は、こういった方形の部隊を、数十単位も横に並べて進んで来たのであった。それは、これまでに見たことのない、全く奇妙な陣形であった。
いつもの通り、江東兵たちは敵に正面から斬り込もうとした。
しかし、跳ね返された。
密集した部隊の楯と長槍は、正面からの攻撃に極めて強かった。敵は、攻撃をものともせずに、一斉に前進を続けて来た。
呂馬童が、兵を叱咤して指令した。
「― 横に、回り込めっ!横に!」
方陣と方陣との間には、空隙があった。正面から戦って勝てないと判断した指揮官は、方陣の横から敵に食らい突けと兵たちに命じた。
江東兵たちは、すかさず方陣の隙間に向けて、侵入しようとした。
そのとき。
方陣の後列の半分が、横にずれた。
隙間から侵入しようとした江東兵は、たちまち分かれた後ろ半分の小隊から、正面攻撃を受けた。江東兵は、槍の林に遮られて後退してしまった。
敵は、歩度を緩めることもなく、ますます前進して来た。もう少しで、楚軍は壊走する間際であった。
項羽は、意外の戦況を見て、配下に指令した。
「― 敵は、縦に薄い。一点を、突破するのだ!」
そう言って、自ら馬の腹を蹴り上げた。彼の馬は、高らかに一声を挙げて突進していった。呂馬童、項荘ら配下の騎士たちが、後れじと続いた。
たとえ不利な戦況であっても、逆転させる神通力を持つのが、項羽であった。彼が雄叫びと共に戦場に現れたとき、浮き足立ち始めていた江東兵は、再び踏み止まった。
江東兵たちは、左右から方陣を叩きに叩いた。
項羽は、矢をつがえて敵兵に放った。彼の矢は、過たず敵を殺していった。彼に付き従った者どもも、攻撃を一つの部隊に集中させた。
やがて、敵陣に綻びが現れ始めた。項羽は、その隙を逃さなかった。馬を疾駆させて、陣の中に斬り込んだ。
ついに、敵の一角は崩れ去った。
「今ぞ!突っ込め!」
後ろに回りこむことができれば、方陣は脆い。
項羽は、勝利を確信した。江東兵たちは、勇躍して敵を包囲しに掛かろうとした。
だが、このときであった。
敵の後方から、馬蹄の音が響いた。
音はたちまちに近づいたかと思うと、次の瞬間には江東兵の血しぶきが挙がった。
強烈な一撃のために、江東兵の行く手は、塞がれてしまった。
「何、、、?」
兵たちが見たものは、かつてない威容の怪物であった。
恐ろしく背の高い、何ものかであった。目に入るものは、白かった。地上からの兵の視線では、それしか分からなかった。少し上に目を挙げることができた兵ならば、白いものの上に、華麗な甲(よろい)を纏った人間らしい姿を、確かめることができたであろう。甲の形状は、見たこともないものであった。その顔は、金属製の面で覆われて見えなかった。
「騎兵かっ!」
誰かが、ようやくその正体を認識できて、叫んだ。
一騎の騎兵が、戦場に踊り込んで来たのであった。
その動きは、彼らにとって信じられないような速さであった。騎兵は戦場の右に駆けて斬り付けたかと思うと、次の瞬間には左で敵を押しまくっていた。その動きは、全く騎乗する馬が為さしめるものであった。
馬の姿は、まことに尋常でなかった。誰も、このように大きな馬を見たことがなかった。筋肉は素晴らしく盛り上がり、脚は削られたように長く真っ直ぐであった。巨体のくせに、恐ろしく素早く旋回した。まるで、美姫が踊るような華麗さであった。さらに馬の毛色もまた、全く見かけない美しいものであった。白馬ですらも珍しいのに、白毛の中に刷かれたように灰色が加わっていた。この色を形容するならば、白銀というべきであった。白銀の馬など、誰も見たことがなかった。
「― 騅(すい)だ。」
馬に詳しい呂馬童が、うなった。この毛色の馬を、形容して騅という。だが彼も、実物を見たのは今日が始めてであった。
「あれは、騅馬だ、、、初めて見た。」
呂馬童は、戦場にも関わらずその姿に見とれて、半ば呆然としてしまった。
だが、項羽は違った。
「― 討たん!」
項羽は、突如現れた騎兵に対して、決戦を挑もうとした。
彼は、自らの馬を敵に向けて駆けさせた。
しかし、騅馬の騎兵は、このとき決戦を望まなかった。彼が出てきたのは、今日の戦闘を切り上げるためであった。
彼は、一通り暴れ回った後で、兵に撤収の命を出した。
彼は、つぶやいた。
「― やはり、にわか仕込みの兵では、この戦法の実力を十分に発揮できない。今日は、よい教訓を得た。」
そう思った彼に向けて、項羽が突進して来た。
騅馬の騎兵は、覆面の下でにやりと笑った。
項羽が、満面に怒りをみなぎらせて、またたく間に接近した。
「― あの目は、、、この地の民とは、違うものだ。」
騅馬の騎兵は、この瞬間にも敵を冷静に観察した。
項羽が、大喝と共に剣を振り下ろした。
だがそのとき、すでに騎兵は自らの馬を、空に駆けさせていた。
項羽の馬では、彼の馬に追いつくことすらできなかった。
騅馬の騎兵は、高らかに笑いながら、自陣に向けて去って行った。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章