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二十三 窮鳥獲るべし(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

楚軍は、辛うじて今回の戦を守り切ることに、成功した。
もし項羽がいなければ、突如現れた新しい秦軍の陣形と、恐るべき強さを見せた騅馬の騎兵によって大敗していたことであろう。

帰還した項羽に、陳平が言った。
「― あれは、宛人の戦法です。そして、現れた騎士は、宛人に違いありません。」
項羽は、耳慣れぬ言葉に、問い返した。
「宛(イェーン)?」
陳平は、きわめて博識であった。彼は、秦の地のさらに向うの世界について聞き知っていたことを、話した。
「秦が最初興った土地は、中国の西の果て、すなわち岐山の麓でした。しかしそのはるか彼方に広がる熱砂を越えると、別の世界が拡がっています。現在その世界は、西方から来た強大な種族によって、ことごとく支配されていると聞きました。その種族とは、眼目は美麗にして、性質は怜悧。兵は丸楯を取り方陣を組んで戦えば、向かうところ敵なし。そして騎士たちは、青銅の甲冑を付けて名馬を飼い慣らしているとか。その種族が、宛人です。本日現れた騎士こそが、伝え聞く宛人に違いありません。彼が、秦兵を指揮して宛人の戦法を取らせたと推測いたします。」
宛人も中国の向うにある別の世界も、項羽にとっては初めて聞いたことであった。
陳平は、進言した。
「― 秦は、昔から西方とも交流があったと聞きました。本日のように、我らにとって予想もつかない戦術を知った客将を抱えているのかも、しれません。無理攻めは、今後控えたほうがよいと思います。それよりも、調略を用いて、、、」
項羽は、しかし陳平の進言など聞かず、一人つぶやいた。
「宛人の、騎士。西方の、種族か!、、、次こそは、戦場で見えなければならぬ!」
彼は、闘志に燃えて、灰色の目を輝かせた。
彼は、呂馬童から聞いた。
騎士の馬は、西方にしかいない馬種であると言う。
「西方の馬は、神速にして、強健。千里を走り続けても、疲れを知らぬと言います。あの馬の毛色は、騅と言います。騅は、西方の馬でしか見られない種類です。」
項羽は、新しい世界を知ってまたも嘆息した。
「騅というのか、、、あのような馬が、私も欲しい。」
彼は、始めて自分にふさわしい馬を見たと、思った。
宛とは、「イオーネス(Ίωνες)」を中国の民が聞き取った言葉であった。
サンスクリット語では、「ヤヴァナ」と呼ばれた。アラブ語では「ユーナーン」、ヘブライ語では、「ヤヴァン」である。これらは全て、ペルシャ人が小アジア(アナトリア)のイオニア地方に都市を築いていた人民を指して呼んだ名称が、どんどん東方にまで広がっていったものであった。
それらは全て、「イオニア人」という意味であった。そして、東方の者にとって「イオニア人」とは― ヘラス(Ελλάς、現代発音ではエラス)の民のことであった。ヘラスとは、彼らの自称である。ずっと後世に宣教師たちがもたらしたこの言葉を、中国人が漢字に転記して「希臘」(シーラー)と書いた。また現代の他国人の中には、ラテン語での地名「グラエキア(Graecia)」を借用して呼んでいる者もいる。日本語は、こちらの部類の「ギリシャ」である。
本日、騅馬の騎士が秦兵を指揮して行なわせた陣形は、ギリシャ人が編み出した戦法のファランクスというべきであった。都市の市民が楯と槍を持って、方陣を組んで進む。方陣の全員が歩調を合わせ、方陣の一角が敵に討たれて危機に陥れば、すかさず隣の者が助ける。各縦列ごとに大小の隊長が選ばれていて、状況しだいで縦にも横にも陣を組替えて臨機応変の戦闘を行なうように組織されていた。生まれ育った土地の同胞を命を賭けて守る、市民の団結心。戦場の敵にも怯まない、兵卒の勇敢さ。そして戦場でも慌てず最善の戦い方を指揮することができる、隊長の知力。ファランクスは、この三つを兼ね備えていたギリシャ人ならではの戦法であった。
不思議なる騅馬の騎士は、確かに宛人すなわちギリシャ人の将であった。彼らは、この頃すでにペルシャを亡ぼして、中央アジアからインドまで兵を進めていた。その一人が、秦軍の中にも混じっていたのであった。

項羽は、騎士との再戦を望んだ。
しかし、秦軍と戦場で戦う前に、秦軍の内部では動揺が起こっていた。
章邯のもとに、ついに咸陽から使者がやって来た。
「これまで兵数十万を失い、巨額の費用を費やしながら、反乱を鎮めることができない。その怠慢は、不忠である。これより、官吏を遣わして将軍の行跡を査問するであろう。」
章邯は、ついに来るべきものが来たかと思って、目の前が暗くなった。
章邯は、咸陽に何とか申し開きをするべきであると、焦った。
「もう私に勝てる確信は、ない。しかし私を失えば、秦は亡びるばかりだ。何としても、咸陽に思いとどまらせなくてはならない。」
章邯は、上奏文を長々としたためた。
書き終わった後で、しかし彼は考えた。
「これけでは、中丞相を動かすことができぬ、、、」
秦帝国の全てを握っているのは、中丞相の趙高であった。ゆえに章邯は趙高に媚びるために、裏から自分の得たこれまでの褒賞などをどしどし贈り与えて来た。もう、今の章邯に与えるものなどは、残されていなかった。彼は、うつむいて息を吐いた。
彼の陣営に、一人の官吏が入って来た。
章邯は、彼の影を認めて、言った。
「― 長史(ちょうし)か?」
入って来た官吏は、司馬欣という名であった。彼は長史という役職にいたので、長史欣と呼ばれていた。
司馬欣は、章邯将軍の側近として、陣中で仕えていた。彼は、将軍に言った。
「それがしが、将軍のために咸陽に使者として赴きましょう。中丞相に、何とか弁明いたします。」
章邯は、言った。
「だめだ、、、中丞相が、天下の情勢の急変を、認めるはずもない。望みは、ほとんどない。」
司馬欣は、章邯に向けてささやいた。
「― その場合には、楚に降伏なされよ。」
章邯は、彼の言葉にぎょっとした。
司馬欣は、続けてささやいた。
「それがしは、かつて楚の項梁の命を助けたことがあります。項氏とは、昔からのつながりがあるのです。いざとなれば、それがしが動いて項籍に将軍を受け入れさせる道を開くことが、できるでしょう。」

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章