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二十三 窮鳥獲るべし(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

司馬欣が言うには、かつて項梁が楚の滅亡後に潜伏していた時期の、ことであるという。

その時司馬欣は、関中にある櫟陽(やくよう)という城市の、獄掾(ごくえん)であった。
項梁が、この櫟陽でとある罪に連座して、捕えられることとなった。
このままでは、彼は万事休すであった。彼を取り調べたのが、獄掾の司馬欣であった。
項梁は、弁明した。
― 私は、あの主犯者とは、何の関係もありません。
司馬欣は、項梁に言った。
― ならば、それを証明してみろ。
こう言ってから、彼は項梁に対して無実となるために何が必要であるかを、伝えてやった。主犯者の郷里である旧楚の蘄(き)の獄掾から、無関係であるという書状をもらって提出せよ、と彼は項梁に申し付けた。
この頃の司馬欣は、手心を加えるのを旨とする官吏であった。なるたけ厳格に法を適用せず、捕えられた者を無罪とするように持っていくのを仕事の基本としていた。沛の獄掾、曹参と同じ姿勢であった。この時の司馬欣は、項梁に対して、
― 後は、お前の人脈で手を回して、書状を受け取れ。
と、暗に項梁に言ったのであった。
日を措いて、項梁が蘄の獄掾、曹咎からの書状を提出して来た。これによって、項梁は無罪となった。
項梁は、司馬欣に深く感謝した。司馬欣は、感謝にも及びませんと、笑って返した。
それ以来、司馬欣は項氏のことを知っていたのであった。
司馬欣は、章邯にこのような過去のいきさつを述べてから、彼に言った。
「将軍が定陶で項梁を討ったのは、秦のために働いたからです。それは、秦将としてやむをえないことでした。項籍は、才を愛する武将です。将軍は、秦のためにこれまで巨大な功績を挙げながら、今秦から見捨てられようとしております。いっそ将軍は、楚に飛び込む道を選ばれるべきでは、ないでしょうか?ご決断なされば、それがしが将軍のために働きましょうぞ。」
しかし章邯は、司馬欣の言葉を言下に否定した。項梁を殺した自分を、甥の項羽が許すはずがないと断じて、まともに取り上げようともしなかった。
司馬欣は、自分の陣営に戻った。
そこに、一人の男が待っていた。
彼は、男に言った。
「蒯通、、、将軍は、乗ろうとしない。」
そこにいたのは、蒯通であった。
彼は、司馬欣の立場に注目して、これを動かして章邯を崩す計略に出たのであった。
蒯通は、言った。
「― まだ、将軍は心のどこかに、希望を持っておられるのです。」
司馬欣は、聞いた。
「これから、どうすればよいか?」
蒯通は、答えた。
「希望を、完全に断ちましょう。あなたは、咸陽に行かれよ。そうして、咸陽の内情を詳しく将軍に伝えるのです。こうして、内から希望は断たれます。その上で、外からも希望を断ちましょうぞ。少しく、戦が必要です。」

司馬欣は、章邯の上奏文を持って、咸陽に向かった。
彼は、丞相府の官吏を通じて、中丞相の趙高に章邯の上奏文を渡した。
彼は、咸陽宮の外門の司馬門で、下問を待った。
結果は、予想されたとおりであった。
咸陽宮からは、何の言葉も降りて来なかった。
三日経っても、趙高からの答えはなかった。
「― そろそろ、退去するべき時であるな。」
司馬欣は、三日を咸陽で過した後、立ち去る決意をした。
彼は、あえて脇道を通って、章邯の陣に帰還した。
蒯通の、忠告であった。
「二世皇帝と趙高は、もはや宮廷の中の世界でだけ生きています。宮廷の実情を戦場に伝えまいとして、必ずあなたを捕えようと手を伸ばすことでしょう。」
果たして、趙高は退去した司馬欣を捕えるために、追っ手を差し向けていた。司馬欣は、蒯通の智恵によってこれを辛うじてかわすことができた。
彼は、章邯の陣に舞い戻って来て、進言した。
「― だめです。もう、だめです。中丞相は、秦を乗っ取ろうとしています。」
司馬欣は、咸陽で見聞した宮廷の実情を、詳しく述べた。
「咸陽の百官は、今や完全に趙高の言いなりです。こんなことがあったと、聞きました―」
彼は、最近咸陽宮で起こった一幕について、章邯に語って聞かせた。
ある日、二世皇帝が百官を招集した。
皇帝は、長い間ずっと後宮に籠りっきりであった。彼は、若年ゆえ配下に侮られないように、姿を隠して奥に潜んでいた。趙高が、薦めたことであった。それ以来、政務は全て趙高が掌握し、二世皇帝は後宮でただれた生活を送るばかりの日々であった。
その皇帝が、久しぶりに百官の前に現れた。趙高に言われて、出て来たのであった。彼は、趙高の言葉であれば、どんなことでも聞いた。だが、本日何をするのかは、事前に聞かされていなかった。
司馬欣は、言った。
「居並ぶ百官の前に、皇帝陛下が久しぶりにご尊顔を現されました― しかし、そこで行なわれたのは、、、」
彼は、百官の前で起った事態を、さらに語り続けた。
宮殿の広間に、一頭の鹿が持ち込まれてきた。
趙高は、拝謁して皇帝に言上した。
「本日陛下には、百官より謹んでこの獣を献上いたします、、、陛下、この獣の名が、お分かりでしょうか?」
二世皇帝は、口をもぞもぞさせながら、答えた。
「む、、、ろ、、、鹿(ろく)。」
彼は、後宮で過しているうちに、次第に言葉を使う能力が退化していた。後宮では、相手を説得するための言葉など、必要ないのである。
趙高は、わざと怪訝な顔をして、言った。
「違います。これは、馬です。」
二世皇帝は、首を振った。
「鹿。鹿。」
趙高は、大きな声を出して、言った。
「何と陛下はこの馬を、鹿と言われる!、、、この趙高は、これが馬であるとはっきり分かる。百官一同よ。これは、馬であるか!それとも、鹿であるか!」
百官は、恐れて沈黙した。
趙高は、宦官らしい不気味な声を張り上げて、叫んだ。
「一人づつ、意見を述べい!馬か、それとも鹿か!」
大半の者が、馬と言った。
あえて鹿と言った者に、趙高は恐ろしい視線を投げ掛けた。
それを見て、他の者は震え上がった。結局、勇気を出して鹿と言い切った者は、両手で数えられるほどであった。
二世皇帝は、この光景を見て何が何だか分からず、気分を害して後宮に退いて行った。
司馬欣は、この愚劣な出来事を語ってから、さらに後日談を付け加えた。
「そして、この場で鹿と言い切った者は― 直ちに、獄吏の手に落ちることとなりました。秦は、もはや中丞相の手に落ちました。将軍!あなたは、中丞相のために、これ以上戦うつもりなのですか?」
章邯は、この「鹿を指して馬と為す」陰謀を聞いて、驚愕した。もはや、秦帝国はおしまいであった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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