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二十四 章邯降る(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

司馬欣は、章邯に言った。

「このままたとえ将軍が勝利しても、将軍の地位はますます危くなるでしょう。中丞相は、功績が過ぎたるあなたのことを、放っておくわけがありません。しかし勝つことができなければ、あなたはやがて獄吏に渡されて、腰斬となるでしょう。どちらにしても、あなたの今後には李斯と同様の道が待っているだけです、、、将軍!どうか、よくよく身の振り方を考慮されたまえ。」
章邯は、司馬欣から指摘されて、腕を組むばかりであった。
彼は、苦悶の表情を浮かべて、つぶやいた。
「しかし、、、しかし、楚に降ることは、、、」
司馬欣は、さらに畳み掛けた。
「― 楚からも、将軍に救いの手が伸びております、、、蒯通!」
司馬欣は、蒯通の名前を呼んだ。
待機していた蒯通が、陣営に入って来た。
蒯通は、章邯将軍の前で深く拝礼した。
章邯は、不審に思って聞いた。
「― 何者ぞ、うぬは?」
蒯通は、答えた。
「趙の大将軍、陳餘の使者として、将軍のために参上した者です―」
蒯通は、偽って言った。現実は、すでに陳餘は大将軍の印綬を投げ捨てて、趙から逃げ去っていた。しかし、彼は章邯を獲るために、あえて以前の称号を用いた。
蒯通は、かねてから用意しておいた、陳餘の書簡を章邯に手渡した。
そこには、章邯に降伏を勧める内容が、堂々たる論旨で書かれてあった。さすがに、陳餘は文書を書かせれば一流であった。
蒯通は、章邯に言った。
「将軍がご決断なされば、陳餘もまた旧怨を捨てて受け入れることに、吝(やぶさ)かではありません。もはや、これ以上の戦は続けても何の益もございません。すでに、秦は秦でなくなりました。秦は、趙高によって盗まれたのです。将軍が属する国は、死んだのです。ゆえに、これから新たに始まる楚の御世に、将軍は胸を張ってお入りなされよ。」
章邯は、沈黙した。
蒯通は、言った。
「― 試みに、項籍に対して盟約の書簡を送られよ。きっと、将軍のために良い返事が戻って来ましょうぞ。」
章邯は、苦しみながら、次第に追い詰められていった。
もとより彼は、兵法のために命を燃やしている男であった。王翦将軍に憧れ、秦朝の危急存亡の秋(とき)に至り天運あって兵を操る機会に恵まれた。爾来、彼は将軍として戦いに戦い続けて来た。しかし項羽という天才の出現によって、秦将としてこれ以上の勝利は得られないことが明らかとなってしまった。勝てない戦を続けることは、兵法家の忌(いみ)であった。
(国を捨てるのは、恥辱。しかし、その国はすでに、元の国ではない、、、)
彼は、憂悶の色を深くした。
彼は言葉を失い、気分を害して二人を立ち去らせた。
章邯将軍の陣営から退席して、蒯通は司馬欣に言った。
「将軍は、楚に盟約の使者を送ることになりましょう。」
司馬欣は、彼に聞いた。
「すでに、将軍の心は傾いたというのか?」
蒯通は、答えた。
「将軍には、敗北すると分かっていても国のために戦うという気概は、ありません。彼もまた、典型的な秦人です。秦人は賞罰の法に操られることに慣らされているので、功利を越えて踏み止まることが、結局できないのです。」
司馬欣は、言った。
「なるほど。揺さぶれば落ちてしまう、というわけなのだな。」
蒯通は、言った。
「しかし長史、あなたのように簡単に寝返る男では、ありません。」
司馬欣は、彼の毒ある言葉に、不快になった。
蒯通は、気にせず言った。
「― さてと、使者が楚に届く前に、一戦を始めさせますか。」
司馬欣は、驚いて聞いた。
「この場に及んで、まだ戦が必要なのか?」
蒯通は、答えた。
「将軍は、あなたとは違うと申したでしょうが。もう一段将軍を絶望に追い込んで、初めて完全に降るでしょう。」
こうして、計略の仕上げが始まった。

ほぼ時を措かずして、楚の陣営。
陳平が、届けられた書簡を読んで、苦笑していた。
「章邯を降すために、戦で勝てと書いてきおった、、、これだから、縦横家は!」
陳平はすかさず韓信を呼んで、蒯通からの書簡を見せた。
陳平は、笑って韓信に言った。
「あの、縦横家め。章邯の心にとどめを差すために、戦って勝利しろと言う!そんなに簡単に戦の勝利が得られれば、誰も苦労はせぬわ、、、勝てますかな?」
韓信は、書簡を読んで、言った。
「こんな計略を、進めているのか、、、外交とは、深いものだ。」
彼は、感心してしまった。
蒯通のような人を操る奇策は、とても韓信の出せるものではなかった。
陳平は、言った。
「外交などは、我らに任せておけばよい。だが堂々の戦ならば、蒯通はおろかこの私よりも、きっとあなたの方が上手でしょう。どうです、今戦って秦を破ることができますか?」
韓信は、腕を組んでしばし黙考した。
彼は、言った。
「― 勝てるでしょう。」
陳平は、喜んだ。
韓信は、言った。
「三戸から漳水を渉って、突如秦軍に近づく。秦軍は、糧道を断たれることを恐れて、出て戦わざるを得ない。敵を引きずり出したところを、項上将軍が野戦で仕留める。敵には例の騅馬の騎士がいて不確実な要因であるが、上将軍ならば決して敗れることはないでしょう。」
彼の着眼点は、適確であった。

          

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第五章 楚滅秦の章


           
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第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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