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二十四 章邯降る(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

蒯通の予想どおり、章邯はすでに崩れ始めていた。

彼は、始成という名の軍吏を、密かに楚軍のもとに遣わした。
しかし、始成と会見した陳平は、彼に言った。
「いったい、秦軍は我が楚軍と何をしようというのか。秦は武信君を定陶で殺し、これまでに数多くのわが将兵を損なった。秦は、すでに楚と不倶戴天である。和議などは、到底受け入れられない。」
始成は、慌てて返した。
「し、秦楚の和議では、ございません。これは、章邯将軍の一存でございます―」
陳平は、始成に言った。
「なんと、秦の将軍が皇帝の命も聴かずに、勝手に事を進められるのか?、、、腰斬どころでは、済ませられませんぞ!」
陳平は、始成を詰問した。
始成は、章邯から命じられて使者に赴いた。だが、いざ秦の法にあえて叛くつもりなのかどうかを問われたとき、彼の心中に恐怖が立ってしまった。彼は、ついに言葉を濁すばかりであった。
陳平は、言った。
「― まだ、章邯は秦将であるということか。秦の法を完全に捨てなければ、我らと盟約を結ぶことはできぬ。これより一戦して、将軍に楚軍の実力をお見せするより、他はない。」
すでにこの時、秦軍を討つ作戦は、始まっていたのであった。

作戦の第一段階は、秦軍を引きずり出すことであった。
まず蒲将軍が一軍を率いて、昼夜を措かず兵を進ませた。
蒲将軍の隊は三戸で漳水を渉り、鉅鹿の南まで一挙に近づいて布陣した。
敵の虚を突くための、進軍であった。立てこもる敵軍を別働隊に叩かせていぶり出すのは、兵法の基本教則であった。だが基本ではあるが、いや基本であるからこそ、これを成功させるのは極めて難しい。将が味方の兵をよく統率して動かし、かつ敵に読まれないために明察かつ大胆な作戦を立ち上げること。この両者がなければ、ただの強襲である。わが川中島の戦のごとく、たとえ武田信玄率いる精鋭部隊をもってしても必勝はおぼつかないであろう。
しかし、この時の楚軍は、ついに章邯を引きずり出すことに成功した。
韓信の、予想どおりであった。秦軍は糧道を断たれることを恐れて、楚軍を追い払うために出撃した。
たとえ名将の章邯であっても、敵の描いた作戦の渦中に誘い込まれては、十分に戦うことができない。秦軍は、蒲将軍に勝つことができなかった。
秦軍が野戦の対陣に誘い込まれたとき、項羽の楔が打ち込まれた。
上将軍項羽が、現れた。
楚の全軍を率いて、風のごとく戦場に現れた。
江東の健児は、勇躍して秦軍に襲いかかった。この頃すでに、秦軍ですら江東軍を見ると恐れるようになっていた。それほどに、奇蹟の男項羽に率いられたこの集団は、将の魂に感じて奇蹟のように強かった。
『史記』項羽本紀には、こう描写されている。

― 楚の戦士は、一を以って十に当らざるは無し。楚兵の呼声は天を動かし、諸侯の軍にして人々が惴(おそ)れ恐(おそ)れざるものは、無し。

項羽が宋義を斬って卿子冠軍の兵権を握ってから、わずかの期間のことであった。そのわずかの期間で、彼は己の天才によって、配下の兵を変えてしまったのであった。
「討つべし、討つべし、討つべし、討つべし、、、!」
少年兵の小楽ですら、今や自軍の強さに乗りに乗っていた。いつしか、江東兵たちは項羽のことを「項王」と呼ぶようになっていた。すでに、彼らにとって項羽は王であった。彼以外に、天下の王はありえなかった。
「項王のもと、我らは無敵だ!誰も、止められるもんか、、、!」
小楽は、秦兵に斬りかかった。今や、自分が江東兵であるだけで敵兵が恐怖の表情を見せるのが、小気味良かった。
秦軍は、至るところで破られていった。
もはや、決定的な敗北であった。
「死ぬるべきで、あるか、、、」
章邯は、蹴散らされていく自軍を眺めながら、死を思った。
乱軍の中で、江東の騎兵たちが、敵将を探し求めた。
章邯は、戦陣から動こうともしなかった。
ついに騎兵たちが、敵将の陣を見定めた。彼らは次々に馬を走らせて、首を刈るために突進していった。
あとわずかで、秦将の首は飛ぶところであった。
そのとき。
先頭を駆けていた騎兵が、やにわに馬から落ちて、どうと倒れた。
騎兵は、投槍を心臓に食らっていた。
次の瞬間。
後続の騎兵たちの前に、あの男が現れた。
「― これと戦えぬようでは、私は今後安息(パルティア)人の兵を討つことは、できないだろう、、、やってみるか。」
彼は、馬腹を蹴り上げた。乗る馬は、まぎれもなくあの騅馬。神々しい姿が、戦場で高らかにいなないた。
騅馬が、突進した。
いかに江東の強兵といえども、その神速には誰も付いていくことが、できなかった。江東兵たちは、剣を当てることもできずに、翻弄された。ある者は、騎士の宝剣に斬り付けられた。素晴らしい、剣の切れ味であった。またある者は、騅馬の突進に足を踏み外し、戦場の泥の中に体をまみれさせてしまった。
呂馬童が、騎士に向けて自らの馬を走らせていった。
「剣などよりも、この一拳を食らわせてくれるわ、、、!」
彼は、百人力の拳力を振わせて、雄叫びを挙げて騎士に突き進んだ。
騎士は、迫ってくる兵士を観察して、言った。
「― 秦の民は、体が小さい。いかに勇猛でも、戦士としてケルトイ(ケルト人)にはかなわぬ、、、」
彼は、あえて馬を止めて、男を待ち構えてやった。
呂馬童が、馬を横付けさせて、拳を打ち込んだ。
騎士は、ひらりと交した。呂馬童の体では、巨場に乗る騎士に、腕を届かせることができなかった。拳は、空を切った。
騎士は、騅馬を一叩きして、体当たりを食らわせた。
呂馬童と馬はもろともに吹き飛び、彼は馬から落ちて地面に打たれた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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