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二十四 章邯降る(3)

(カテゴリ:楚滅秦の章

騎士は、倒れ伏した呂馬童に向けて、馬首を巡らせた。

そのまま騅馬の巨体を疾駆させて、踏み殺すところであった。
そこに。
「、、、来たな?」
騎士は、前の時と同じ殺気を感じた。
狼の目の男が、猛然と馬を突進させて来た。
男は、手に持った長大な戈を、一旋させた。ぶわん!と音を立てて、騎士と馬に向けて、刃が打ち込まれた。
騎士は、手綱と足で馬を軽やかに操った。騅馬が、彼に応えた。項羽の渾身の一撃は、またしても空を切った。
「それにしても、見事な体躯の男だな。この国の者とは思えぬ、、、お!」
一撃をかわした騎士に向けて、早くも次の攻撃が逆方向から襲って来た。予想以上の、膂力であった。
今度こそは、騎士も本当に危なかった。あと一瞬反応が遅れれば、項羽の刃が脳天に突き刺さっていたであろう。
騎士は、それでも余裕であった。
彼は騅馬を操って、項羽から間合いを取った。
それから腰の宝剣を、すらりと抜いた。
剣は、この秦の土地で作らせたものであった。青銅を鋳て鋭利な刀剣を作る技術は、中国が西方よりもずっと上回っていた。
「― まだ、私は若い。進んで戦わなければ、どうしてこれから我が道を切り開くことができようか?、、、よおし!」
騎士は、項羽と一戦することを、決意した。
「― 行くぞ!」
騎士は、剣を右手に構えて、項羽に向けて騅馬を突進させた。
「我が守護神デーメーテールよ、、、願わくば、我を守りたまえ!」
覆面の奥から、騎士の鋭い眼光が垣間見えた。
項羽の狼の目と、騎士の目が合った。
「よい目だ、、、」
項羽は、覆面の奥から覗いた眼を見て、思わずつぶやいた。
馬と馬とが、すれ違った。
騎士は、刃を閃めかせた。
項羽は、渾身の一撃を振り抜いた。
両騎が通り過ぎて、動きを止めた。
騎士の覆面が、吹き飛んで真っ二つに切れた。
項羽の胸の錦繍が、甲(よろい)と共にざっくりと切れ落ちた。
互いに、斬り付けていた。
しかし、二人とも生きていた。
騎士は、振り返った。
波打つ髪が、美しく揺れた。戦士のならいとして、戦場では綺麗に髯を剃り落としていた。
若い、男であった。青年の項羽よりも、さらに若い表情であった。その顔立ちは、中国の民には決して見られない、端整な輪郭であった。
騎士は、言った。
「馬の差がなければ、私が斬られていたであろう、、、お前が、項籍か?」
綺麗な、秦人の言葉であった。
「然り。予は楚の上将軍、項籍である。」
項羽も、秦人の言葉で応えた。
騎士は、項羽に言った。
「この戦は、お前の勝ちだ。秦の地は、全てお前のものとなるであろう。秦はつまらない国であったが、初めてお前と会ってよいものを見ることができた、、、感謝する!」
そう言って、騎士は高らかに笑った。彼の額には、血の筋が流れていた。だが、若い騎士は気にも留めなかった。
「― また、会おう!」
そう言って、騎士は騅馬を走らせて、去って行った。
呂馬童は、項羽に言った。
「あれが、宛人ですか、、、」
項羽の胸からは、血が滴り落ちていた。
虞美人から受け取った錦繍は、切り裂かれて落ちていた。
しかし、馬上の彼は、ひそかな笑みを湛えていた。
彼もまた、騎士と同じく今日の戦で違うものを感じ取ったのであった。
「何という、未知の男であろうか、、、何もかもが、新しい世界ではないか!」
項羽は、いつしか暮れなずんでいく戦場で、遠くの地平を眺めた。

騎士が去ると共に、戦も終わろうとしていた。
結果は、楚軍の完勝であった。
章邯は、騎士が戦っていた最中に、辛うじて戦場から逃げ延びた。
だが、彼の将としての気概は、すでに消え失せてしまった。
戦の後で、章邯は、司馬欣に言われた。
「楚は、将軍が秦の法を捨てれば受け入れることを約しています。咸陽に勘付かれる前に、直ちに楚に使者を送られませよ。」
もはや、章邯は言われるがままに受け入れた。
楚軍に、再び使者が送られた。
期日を約して会盟の地に章邯が赴き、そこで項羽に全ての兵権を差し出すという、内容であった。
会盟の地には、殷墟(いんきょ)が提示された。
かつて、殷王朝中興の祖盤庚(ばんこう)が、国を建て直すために都を移した土地であった。以降、最後の王である紂王が周の武王に亡ぼされるまで、殷王国の都であった。この時期にはかつての都の跡は泥土の下に埋もれ、ただ地名だけが後世に残されているばかりであった。
だが配下の二十万の秦兵には、章邯将軍の意向は何一つ知らされていなかった。
知らせれば、必ず外に漏れるであろう。そのときには、章邯も司馬欣も命がない。楚との盟約は、章邯と司馬欣の独断で進められた。
このとき章邯は、自分が危険な道を進もうとしていることに、思いを馳せなかった。追い詰められた彼には、もはや知将としての面目すらなかった。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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