«« ”二十四 章邯降る(3)” | メインページ | ”二十五 覇王の夢(2) ”»»


二十五 覇王の夢(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

楚軍に、章邯将軍からの使者がやって来たとの情報が伝わった。

陳平は、確信して軍吏に言った。
「今度こそ、完全に降ったな。まず、私が使者に会おうではないか、、、ここに、通すがよい。」
しかし、軍吏は言った。
「それが、今回の使者は、上将軍に直接会いたいと申しております。」
陳平は、不審に思った。
「なに?」
その頃、江東軍の陣中に、思わぬ人物が現れていた。
「項籍と二人で会見がしたい、、、会わせるがよい。」
騅馬に乗った、あの騎士であった。
使者が来たという軍吏の情報は、正確でなかった。騎士は、正式の使者ではなかった。彼は、項羽に会うために自分の一存で楚軍に来たのであった。
すでに、覆面はしていなかった。騎士は、馬上から男たちに笑いかけた。にこやかに笑うと、実に若々しい美男子であった。迎えた江東兵までが、彼に微笑み掛けられると、思わず顔を赤らめてしまった。項羽が江東の土地に始めて現れた時と、同じ様子であった。
項羽が、奥からやって来た。
騎士は、項羽の姿を見付けると、にやりとして馬から飛び降りた。
騎士は、項羽の前に大股で歩み寄り、彼の前に立った。
それから、無言で右の拳を突き出した。
拳には力がこもっていたが、彼の表情は情愛に満ちあふれていた。
項羽は、莞爾(にこり)とした。
そうして、自分もまた右の拳を突き出して、拳を合わせた。
騎士は、拳に力を込めて、言った。
「― 湧き上がるような、力だ。このような国で、さぞや狭苦しい思いをしていただろう、、、」
項羽の力は、騎士の拳力すら圧倒していた。項羽は、拳に力を込めながら、その表情には喜びを隠せなかった。自分と同じ気概を持る同士にここで初めて会えたことへの、喜びであった。

項羽は、騎士と二人になって、多くの話をした。
騎士は、言った。
「私は、西の国からこの秦に来た。我が父は、新しい国を守るために、いま戦い続けている。まだ若年の私は、経験を積んで見聞を広めたいと志願して、東の秦に向かったのだ。これまで、客として秦軍の中にいた。だが、もう私は西に戻ろうと思う。私は、自分の国を受け継がなくてはならない。お前が、これからこの秦を受け継ぐように。正直お前の活躍を見て、私も自分のために戦わなくてはならないと、思ったのだよ。」
項羽は、騎士に聞いた。
「秦の西には、何があるのか?私は、聞いたことがない。」
騎士は、笑って答えた。
「なんの― 人間が、いるさ。この秦と同じく、人間がいて、作物を育てて、牛馬を飼っている。城市もあれば、宮殿もあるし、王の大きな墓もある。ただ、それだけだ。」
項羽は、聞いた。
「― 広いか?」
騎士は、言った。
「この秦よりは、広い。」
項羽は、興奮した。
「この広い秦よりも、もっと広いというのか?」
騎士は、言った。
「だが、その土地を全て、征服した大王がいた。十三歳で哲学を学び、二十歳で王に即位して、征服の戦を始めた。以来、三十二歳で倒れるまでの間に、彼が知っていた土地の果ての果てまでを、征服し尽くしてしまった。ヘラス、リディア、エジプト、リビア、フェニキア、ユダヤ、バビロニア、メディア、インド、ソグディアナ、そして私の故国である、バクトリア。私の国は、大王が征服した土地の東の果てなのさ。だから、私は大王も行かなかった、この秦に行こうと思った。知られている土地に行ったところで、面白くもないからな。」
こう言って、騎士は子供っぽく片目をしばたかせた。
項羽は、驚いた。
秦や楚は、広大であるとこれまで思っていた。
だが、騎士の言葉によれば、西の土地はもっと広いという。しかも、その土地はすでに一人の若き大王によって、征服し尽くされたというのである。彼は、始皇帝ですら大王に比べれば卑小な存在であるように、思えてしまった。
騎士は、項羽に言った。
「お前の兵は、強いな。お前が、鍛え上げたのだな。私はこれまで、秦の兵は弱いと判断していた。」
項羽は、騎士に聞いた。
「大王が地の果てまでを征服したのも、兵が強かったからであるか。お前たちの兵は、それほどまでに強いか?」
騎士は、答えた。
「我らの兵は― 一人一人が、戦士だ。自ら軍律を守り、同胞を助け、危難には勇気と智恵を働かせることができる。だが、秦の兵は、上から力で押さえ付けて、命令しているにすぎない。そのような兵は、言われた通りに動くことしかできない。勇気も、知力も、何もない。それではペルシャ人と同じく、動物を駆り立てているのと同じだ。大王は、広大な土地を支配するペルシャ王と戦って、これを亡ぼした。いかに敵が多くの兵を集め、富にものを言わせて優秀な武器を揃えようとも、大王は勝つことができた。それは、我らの兵の、強さのたまものであった。お前の兵が秦軍を破ることができたのと、同じことであるよ。」
それは、彼の秦兵への見方であるのと同時に、秦の民への見方でもあった。ヘラスの民から見れば、東方の民はことごとく人間以下の存在であった。
だが、騎士は秦の国の独特さについても、見逃すところがなかった。
彼は、秦の富裕さが、どの国よりも上回っていると賞賛した。
「この国ほど、多くの農耕に適している土地がある国を、私は知らない。この国ほど、多くの人間が土を耕している国もまた、私は見たことがない。私はこの国にエジプトの何倍も農民がいることを知って、驚いてしまった。この国の官吏が優秀なのも、これほど多くの農民を培うために鍛えられているからであろう。この国は、間違いなく世界で最も富裕な国だ、、、お前が、羨ましい限りであるよ。」
騎士は、やがて秦の土地の王となるであろう男に、微笑み掛けた。
この国が富裕であるなどと、項羽はこれまで思ったこともなかった。
「― 何と恵まれた土地に、私たちはいるものだな。」
項羽は、言った。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章