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二十二 騅馬の騎士(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

秦帝国は、ようやく憂慮すべき事態が近づいて来た。

章邯が、鉅鹿の地で項羽に大敗したこと。これは、すなわち六国を帝国として支配する体制の、終わりを意味していた。もはやこれ以降、秦が六国を攻めて平定することは、不可能であった。
秦にとってまずいことに、敵は一致していた。
六国を支配する国が、楚であることは明白であった。
北で、項羽が奇蹟的な勝利を掴み取ったこと。項羽の威光は輝き、趙も、斉も、燕も、楚に従うより他はなかった。
その裏で、沛公軍が残余の戦線を摘み取っていた。
両者の動きは別個であったが、両者とも楚軍であることには違いがなかった。敵は、楚の旗の下に急速に収拾していった。これは、かつての戦国時代に秦に当るべく何度も企てられた合従策とは全く様相を異にしていた。楚と他の国とは、もはや対等でない。楚の覇権による、新帝国の誕生であった。
かつて秦は、六国が合従すれば利と力で揺さぶって、一国一国と切り崩していった。またどこかの国が覇権を目指そうとすれば、あえて別の国と同盟してその覇権国に包囲網を敷いた。強大な実力に狡猾な外交を加えて、秦は戦国時代を勝ち抜いたのであった。結局、六国は戦国時代を通じて分裂していた。ゆえに、秦に手玉に取られっぱなしだったのである。秦の政府にとってみれば、六国の愚劣さを笑い飛ばしたい気分であったであろう。
なのに、今や秦にとってあってはならない事態が、起こってしまった。六国は、楚帝国となったのである。もう切り崩すことは、不可能であった。この事態に至った時、もはや秦は他国に向けて対応する術を、永久に失った。
その秦にとっての悪夢を起こした第一の原因こそが― 項羽という奇蹟であった。項羽の、奇蹟の強さであった。中国の歴史にとって一人の武将がここまで輝くとは、前代未聞の事態であった。前代未聞の事態の前に、他国は動転して巻き込まれ、訳もわからずにひれ伏していった。
それでも、彼と対峙する章邯は、戦い続けていた。棘原に籠って、あらん限りの防禦策を取り続けた。彼には、将として誇りがあった。奇蹟を見せられて、肝をつぶしてひれ伏すような凡将ではない。趙での戦は、二月経っても三月経っても、続いていた。章邯は、日に日に身心を衰えさせていった。それでも、目を爛々と光らせて、気力で戦い続けた。
「― 楚に殺されるのが、先か。咸陽に、殺されるのが先であろうか、、、」
章邯は、一人となったときに、つぶやいた。
自分がまだ敗戦の責を取って斬られていないのは、鉅鹿以前に彼が積み重ねた勝利のためであろうと、思っていた。実に、陳勝以降彼以外に戦で勝利した将軍など、秦にはいないのである。いくら兵に疎い二世皇帝と趙高でも、章邯を除くことにためらっているに違いない。彼は、そう推測していた。しかし、それもいつまで続くかどうか、怪しかった。
章邯は、項羽と野戦することを控えた。予想もできない強さを持つ楚兵と戦えば、今度こそ決定的な敗北をこうむるかもしれない。それで、項羽が挑発の兵を繰り出せば、戦わずに退いた。勝つことができないならば、負けないようにするしかない。まだ、秦には関中という最も堅固な天然の城がある。ここに籠ってよく守れば、たとえ楚といえども容易に破ることはできない。
「― 楚と秦で、天下を二分する。秦を保つには、それしかない。」
だが、そのような展望を章邯が持つことは、空しかった。彼は、六国平定の任務を帯びて戦場に立っているのであった。それで、任務遂行がもはや不可能であると知りながらも、戦場に留まり続ける以外の道を、すでに断たれていた。
季節は、冬が過ぎて春となった。
項羽は、またしても章邯に挑発の兵を出した。
戦況は、完全に楚にとって有利であった。陳平などは、こうしてじりじり追い詰めていけば、やがて秦軍は自壊するだろうと主張していた。それで、駆け引きの策として項羽の出兵を支持していた。
しかし、項羽は決戦を望んでいた。彼の野性が欲するところは、駆け引きよりも決戦であった。
兵を出した彼は、またも苛立った。秦軍は、深く山中に籠って戦おうとしなかった。
項羽は、得るところも失うところもなく、今日も空しく自陣に帰還した。
陣中には、陳平に韓信、それに亜父范増もまた到着していた。
「― そろそろ、調略を仕掛けるべき時期でしょうな。」
陳平が、陣中の者たちに言った。
韓信は、彼に聞いた。
「調略?、、、誰を。」
陳平が、答えた。
「もちろん、敵将の章邯です。」
韓信は、頭を振った。
「― 無理だ。それに、彼を受け入れることは、できない。」
韓信は、章邯を受け入れらない理由を、言った。
「章邯は、上将軍の叔父上の武信君を倒した仇ではないか。どうして許すことが、できようか?」
陳平は、だが韓信の否定に対して、ふふと笑った。
「― あなたは、兵法は知っていても人心を読むことに、疎い。上将軍の心中からは、もはや章邯への仇は消えようとしております。彼の気は、過去を振り返るよりももっと大きなところに進もうと、しているのです。亜父、あなたもそう、思われるでしょう?」
陳平に水を向けられたが、范増は直接の回答をしなかった。
ただ、こう言った。
「― 天下を取るためには、汚れた水も受け入れなければならない。それだけだ。」
陳平は、亜父の言葉に満足して、再び韓信に言った。
「面白いことを、している奴がいますよ― 蒯通という、縦横家です。」
韓信は、聞いた。
「蒯通?、、、確か、陳餘の下にいた、、、」
陳平は、言った。
「そう、蒯通です。陳餘と共にどこぞに行きましたが、今章邯を切り崩すために陳餘と共に暗躍している最中です。」
趙の大将軍であった陳餘は、張耳からその不実を散々に罵倒されて、ついに怒り狂った。それで、ある日張耳の前で将軍の印綬を解いて、張耳に返上してしまった。張耳が自分を引き止めようともしないのを見て、とうとう絶交を言い渡して趙から去ってしまった。今は配下の者どもと共に、河水(黄河)の近くの沢に退去しているという。そのとき蒯通もまたいなくなってしまったが、実は彼は項羽や張耳の鼻を明かしてやりたいという陳餘の願いを受けて、密かに一計を進めていたのであった。
陳平は、言った。
「この策がうまくいけば、章邯は進退窮まり、やがて窮鳥懐に入るでしょうよ。ふ、ふ、ふ、、、」
このとき、陣中がにわかに騒がしくなった。
「敵襲だっ!」
「敵襲かっ!」
江東の子弟たちの声が、響き渡った。
江東軍は、ようやく襲って来た敵に、勇躍して出陣していった。
韓信たちも、急いで馬を走らせた。
「むっ、、、?」
彼は、前方で戦う敵の様子が、これまでとは違うことを見取った。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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