«« ”二十一 将よりも、軍師として(1)” | メインページ | ”二十二 騅馬の騎士(1) ”»»


二十一 将よりも、軍師として(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

結果は、あっけないほどに易い勝利であった。

張良が、ここぞと目を付けた要地であった。轘轅を攻略するために、張良は作戦を練った。まず別の城市を攻めて、秦軍の注意をそらせる。そうした上で隠微に轘轅に向けて兵を進め、一挙に略取する。しごく、簡潔な作戦であった。沛公軍は、張良の思惑通りに動き、そして張良の計画通りの結果を出すことができた。轘轅は、破られた。この難所を破ったことによって、韓の土地は倒れるように平定が進んでいった。
しかし、もし張良が自ら兵を率いて戦っていれば、こうも易々と勝利することはできなかったであろう。全く、今回の作戦で彼は、沛公軍の軍師として働いた。韓軍は、沛公軍の傘下に編入されて動いた。こうして沛公軍が彼の作戦を受け取ったとき、結果は最良のものとなって返って来た。
もとより張良は、蒲柳(ほりゅう)の質であった。彼は近年、ますます体調が優れない日が多くなった。それで、命を賭ける戦場での働きは、もはや無理があった。しかし容姿優れた彼が帷幄の内にあって荒くれどもにそっと用兵を教えるとき、男たちは神秘的な力を感じ取った。彼が計らずも纏(まと)った神秘な空気が、武将たちに催眠術をかけて用兵を得心させた。そして、計画通りの勝利を得ることによって、信頼はますます高まった。穏やかで自己を張らない彼の姿勢もまた、武将たちにいよいよ好感を持って迎えられた。こうして彼の兵法は、沛公軍の背後に潜むことによって、ついに形を得たのであった。
「望んだことでは、なかった、、、しかし、これも天命であろう。」
張良は、陳麗花と二人きりになった席で、彼女につぶやいた。もちろん、麗花は主人の赴くところ、どこまでも付き従って行った。
張良は、麗花に言った。
「私は、これから沛公の威光に包まれて、沛公と共に戦うだろう。私は、居場所を得てしまったのだ。」
麗花は、謹んで主人に言った。
「全て公子の、心のままに、、、でも。」
張良は、彼女の言い掛けた言葉を、聞いた。
「でも?」
麗花は、答えた。
「でも、、、沛公は、善人であるとは、思えません。彼を勝たせて、よいものでしょうか?」
張良は、にことして答えた。
「善人で、あるさ。天下のための、善人だ。もっとも、人のための善人ではないが。頂点に立つ者は、善人でも悪人でも構わないのだよ。ただ、誰かが頂点に立たなければならないだけだ。今、秦帝国は揺らいで、よって天下は大争乱となってしまった。倒れかけた体制は、もはや一刻も早く突き崩さなくてはならない。沛公は、天下を取る意志を持っている。だから、押し上げるに足りる。それで、天下には十分なのだ。」
麗花は、彼の言葉に頭を下げた。
それから、彼女は言った。
「韓子は、どうなさっているでしょうか?、、、項籍将軍の下で、働いておられるはずですが。」
「韓子か、、、」
張良は、しばし瞑目した。
趙の戦線は、韓から遠すぎた。この頃項羽が章邯を撃破したという情報が伝わっていたが、楚軍が鉅鹿を解放した後も、戦いは一進一退の様相であった。しかし章邯が敗れたことによって、このはるか南の戦線においても秦側の士気に暗い影が差し始めたことを、読み取ることができた。秦の将軍は頻繁に更迭され、兵の動きは目立って鈍くなった。咸陽が、いよいよ慌て出したに違いなかった。
「項籍、、、」
張良は、項羽のことに思いを馳せた。しかし彼が成し遂げたことまでは、遠くの張良には量ることができなかった。

韓の平定が終わった頃、張良は沛公の陣中で言った。
「― 秦将楊熊は、二世皇帝の命により斬るところとなりました。秦は、浮き足立っています。趙高が帝国の頂点に座っている限り、秦は本来の力の半分すらも出すことができないでしょう。好機を逃しては、なりません。」
沛公は、張良に聞いた。
「つまり、秦は本当はもっと強いはずだ、というわけか。」
張良は、言った。
「秦には、関中があります。関中は天嶮に守られ、ここに籠ればかつての六国ですら抜くことができませんでした。関中は加えて、沃野千里です。秦はこの天府の地に、渠を掘り抜いて渭水の水を引き、よく灌漑しています。ゆえに兵馬の食が、尽きることはないのです。秦が天下を併呑することができた理由は、まずもって関中を保有していたからなのです。」
沛公は、張良の説明を聞いて、笑みがこぼれずにはおられなかった。
「その関中を、取れば― これは、大変なことになるぞ!」
沛公は、は、はは、ははは、と高笑いを始めた。
湧き上がる昂揚感に哄笑すること、しばらくであった。
はたと、沛公は笑いを止めた。
彼は、叫んだ。
「よし!攻める。ぐずぐずしては、おられぬ!、、、子房、今後の進路を示せ!」
張良は、答えた。
「北を進むか、南を進むか― 二つの道が、ございます。」
沛公は、問うた。
「北の道は?」
張良は、答えた。
「洛陽を過ぎて平陰から河水(黄河)を渉り、函谷関を目指します。しかし、これは下策です。大河、大城、難所が行く手に次々と現れて来ます。」
沛公は、さらに問うた。
「なるほど。では、南の道は?」
張良は、答えた。
「陽城から宛を通過して、武関に回り込みます。回り道ですが、こちらの方がより進むのに容易です。公は、よろしくこちらを目指されよ。」
張良は、武関への道を沛公に薦めた。
しかし、沛公は軍師の言を取らなかった。彼は、北の洛陽に向けて兵を進発させたのであった。
理由は、単純であった。
この頃、趙軍の司馬卬(しばこう)という別将が、まさに河水を渡って函谷関に入ろうとしているという情報が、伝わった。沛公はこれを聞いて、気が気でなくなった。
「― 関中を、取られてたまるか!」
沛公は、司馬卬なる武将のさらに機先を制しようとして、あえて北に進んだのであった。たとえ戦って進めないにしても、司馬卬に調略を食らわせて、彼にもまた兵をこれ以上進ませないつもりであった。
沛公は、欲が出るとそれを掴み取ることに躊躇する男でなかった。彼は欲深者ではあったが、その欲の深さは少しく常人の域を越えていた。自分が勝つために、決してためらわないこと。それは、彼の将としての実力の一つでもあったのである。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章