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三十一 これが英雄か(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

夜、韓信は楚軍に向けて馬を走らせていた。

彼もまた、秦軍の動きを察知したのであった。それで、二人の上将軍に会見しようとしたが、彼らはすでに逃げ出していた。
韓信はここに至り、監視の楚軍を指揮する鍾離昧を説得して動かした。
「全軍、新安城に籠りたまえ。秦軍に、武器を渡してはならない。秦軍の蜂起は、近い。」
鍾離昧は、韓信の言葉に驚いた。
「そこまで、、、切迫しているのか?」
韓信は、彼が驚いたことをむしろ怪しんだ。
「これまでの我が軍の仕打ちを受けて、彼らが刃向かわない方がおかしい。」
韓信は、鍾離昧に城を任せて、自分は馬に飛び乗った。
「お前は、どこに行く?」
鍾離昧の問いに、韓信は答えた。
「― 項王に、話してくる。」
そう言って、彼は駆けて行った。
韓信は、後方の項王の本陣に向けて走りながら、思った。
(あの、二十万人をどうするべきか、、、)
二十万人の、集団である。
しかも、楚の過失によって彼らは敵性を帯びてしまった。
(いっそ、、、)
彼は、今から五十年前にあった長平の戦の故事を、思い出した。
長平で趙軍四十万を降伏させた秦軍の白起将軍は、その全員を阬(あなうめ)にして殺す指令を出した。あまりに多くの敵軍を捕えたために、将軍はそれを管理することが困難であると判断した。敵国の兵ゆえに、秦になびく期待は薄い。しかし逃がせば、敵が息を吹き返してしまう。白起将軍は、命よりも戦略を優先させて、非情の断を下したのであった。
(そうするべきか、、、そうするしかないのか、、、だめだ、だめだ!)
韓信は、身震いした。
かつて彼が兵法を学んだ時には、この長平の戦もまた満身の興味を持って研究したものであった。中でも、白起将軍の周到な用兵には、大いに感心させられた。これぞ国士だ、と思ったこともあった。だが、彼は戦の最後の結果について、想像力が足りなかった。その結末の恐るべき内容について、机の上で読んでいただけで実感することを全く怠っていた。
(だが、どうすればよいのか、、、どうすれば、、、)
彼は、馬を走らせたが、考えはそこから後に進まなかった。
ふと夜道の途上で、兵馬の気配を感じた。
声を殺しているが、大軍であった。
幾手にも分かれて進み、やがて韓信が通っていた道にも兵馬が現れ始めた。
全て、楚兵であった。
韓信は、今起っていることを直感した。
彼は、兵の進む方向とは逆の道を、後衛に向けて急いだ。
見知った顔に、出会った。
呂馬童が、馬を走らせて兵と共に進んでいた。
韓信は、彼に声を掛けようとした。
だが、呂馬童は何も答えなかった。
振り向くことすらせず、押し黙って韓信の横を通り過ぎた。
その後ろから、騎馬の一団がやって来た。
「項王、、、!」
一団の中心にいる武将は、項王以外にありえなかった。あの騅に跨る勇姿は、どれだけ多くの兵馬の中にいても、決して間違えることがなかった。
呆然と前方を見守る韓信に対して、一団が近づいた。項王の左右には、龍且と季布の両将が控えていた。
項王は、前に立つ韓信を見付けた。
彼は、一言だけ韓信に声を掛けた。
「韓信。お前も、見届けよ―」
そう、言い残した。項王は、扈従の騎士たちを引き連れて通り過ぎた。
そのまま立ち尽くす韓信に対して、龍且と季布が引き返して、彼に忠告した。
「項王の、ご命令だ。秦兵二十万を屠ることは、諸将全てが見届けなければならない。」
韓信は、季布に言った。
「二十万!、、、二十万だぞ。」
季布が、言った。
「それがどうした。しょせん、秦兵ではないか。お前も、長平の戦を知っているだろう。それとも、お前の兵法で、何か他に解決する策があるというのか。」
韓信は、言葉を濁らせた。
龍且が、言った。
「一日で、全て済むことだ。降伏した者には、このような末路が待っているのさ、、、負けた方が、悪い。」
龍且も季布も、それ以上の言葉を、言わなかった。
韓信を残して、再び項王を追って去った。
もはや、手遅れであった。
項王が、命じたことであった。彼の命令は、楚軍にとって絶対であった。
結局、項王もまた白起と同様の判断を下した。戦の天才は、時を離れても考えることは同じであった。そして項王が動けば、秦兵二十万人は確実に鏖殺(みなごろ)しとなるであろう。
「これが― 英雄というものなのか?英雄とは、このようなことを平然と行なうために、天によって生まれてくるのであるか?」
韓信は、戦の実相とはこのようなものだ、と何とか自分に言い聞かせようとした。これまでの戦でも、数多くの兵が死んで来たではないか。生かしておいては敵となる集団を、取り除くだけではないか。それは、膿んだ肉を体から取り除くのと同じく、ただの道理ではないか?
韓信は、このまま逃げようと思った。
「― だめだ。私は、戦ができない。」
彼は、楚兵がとうに過ぎ去った後の道を、とぼとぼと馬を歩かせて行った。
いつしか、夜が明けようとしていた。
今ごろ、秦兵は楚軍によって奇襲されて、やがて有無を言わせず処刑場に引き出されることであろう。
処刑は延々と続き、今日の一日は死の一日となるであろう。
韓信は、ふらふらと進んでいった。
だが、彼は突如顔を上げた。
それから、がつんと馬腹を蹴り上げた。
馬は、驚いて猛然と道を走っていった。
彼は、再び新安に戻る道を急いだ。

          

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第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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