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三十二 楚軍を去る(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

新安では、殺戮の労働が始まっていた。

楚軍は、夜のうちに秦軍の野営地を完全に包囲した。秦軍は武器を奪う機会も与えられず、蜂起の計画は水泡に帰した。包囲軍の責任者である黥布は、秦軍の軍吏を集合させて彼らに告げた。
「これより、諸君らを城内に留め置く。各々は兵を率いて、整然と城内に入るべし。」
もはや、抗う術もなかった。
秦軍は、楚兵に包囲されながら続々と城内に押し込められていった。
夜が明けると共に、作業が始まった。
秦兵は数千人ずつ城門から出され、外に連れて行かれた。
「秦地から離して、遠所に配置する。速やかに、歩け!」
秦兵には、このように告げられた。
全ての兵が、目を覆わされた。行き先を見せないためだ、と説明された。秦兵たちは、縦列をなしてぞろぞろと歩かされた。不思議なことに、誰一人として抵抗する者はいなかった。集団は追い込まれたところで道を示されると、不思議に従順な畜群と化す。秦兵たちも、このとき遠所に行かされると思い込んでしまった。確かに、彼らがこれから行かされるところは、二度と帰って来られない所であった。
城から離れて森に入った向うが、処理場であった。
黄土を河流が深く削った、断崖があった。下を見るだけでも、目が眩む。
だが何も知らない秦兵たちは、その断崖の脇で停止させられた。
次いで、指示が出された。
「右に、駆けよ!」
秦軍の軍鼓が、ドン!ドン!と二度打たれた。秦兵にとって、右に進む合図であった。
兵たちは、日頃の訓練の通りに右を向いて駆け出した。
十歩― 二十歩。さらに数歩。
駆けたその向うで、兵たちの足はめいめいに空を踏んだ。
面白いように、数千人が一度に転落していった。
呆気ないほどに、簡単な作業であった。

韓信が新安に戻って来たときには、すでに万余の兵の処理が終わっていた。
さらに、楚兵たちは次の作業を繰り返そうとしていた。
韓信は、作業の一部始終を見た。その大量殺戮に、彼は恐怖した。
「簡単に、殺していく、、、何と、簡単に!」
彼の目の前で、何千人という人間が死んだ。
落ちて行くときに、方々から叫び声が聞こえた。だが、物音はそれだけであった。崖の下に広がっている光景は、かつて襄城で見た阬(あなうめ)の惨劇どころではない。韓信は、そこに視線を向けようとした。だが、できなかった。
あまりの数に、彼でさえも思考が停止しそうであった。すでに作業する楚兵たちは、これが大殺戮であるという実感を失っているに違いない。もはや楚軍を止めることは、不可能であった。
だが彼は、思案した。
それから、彼は城内に向って行った。
しばらくして、次の一団が城から外に運び出された。
引率をしていたのは、韓信であった。
彼は、郎中の役職を利用して、引率の役を軍吏から無理に奪ったのであった。
数千の兵は、韓信に率いられて森の中に進んだ。
韓信は、森に入るとそ知らぬ顔で、道を少しずつ間違えて行った。
森の奥に至って、韓信は秦の軍吏の目隠しを、引きちぎった。
「よいか。兵を連れて、ここから逃げるのだ― できるだけ、遠くへ。」
彼は、目の前の年老いた秦の軍吏に、申し渡した。
韓信は、言った。
「兵に戻ろうなどと、考えるな。戦などは、何の益もない。お前たちと、お前たちの家族の命を、大事にするのだ―」
軍吏は、楚の武将からこのようなことを言われて、戸惑った。
「あなたは、楚人でしょう。あれほどの戦をしたあなた方が、命を大事にせよ、とは、、、」
韓信は、急いで言った。
「急ぐのだ!、、、楚兵に見つかれば、殺されるぞ!」
叱咤されて、軍吏はついに承知した。
「わかりました。あなたの言、心して聞くことにします。後ろにいる数千の命たちと、ともに。」
彼は、数千の兵たちを引き連れて、逃げることにした。
急いで、去らなければならない。
軍吏は、去り際に、惜しむように聞いた。
「あなたの、お名前を教えていただけませんか。あなたは、きっと常の人とは、違う。」
韓信は、横にかぶりを振って否定した。
軍吏は、言った。
「せめて、お名前だけでも―」
韓信は、答えた。
「楚の郎中、、、いや、もう私は、楚軍は捨てた。韓信だ。淮陰の産のただの一匹夫、韓信だ。」
軍吏は、莞爾(にこり)とした。
「淮陰の、韓信― 必ず、覚えておきます、、、」
彼は、優しい表情をした。ただの軍吏では、なさそうであった。
一礼した後、彼は兵たちを率いて、消えて行った。見たところ彼は、兵たちに信頼があるようであった。きっと、逃げおおせることであろう。
韓信は、彼らが遠くに去ったのを確かめてから、元来た道を戻った。
「こんなことしか、私はできない、、、情けない。」
彼は、達成感もなしにとぼとぼと歩いて行った。
歩いた向うには、韓信から言われて待たされていた、監視の楚兵たちがいた。
互いに目を合わせて不審がる彼らを余所に、韓信は森の外に向けて進んだ。
彼の後ろにいる楚兵たちは、今日の殺戮の全貌すら、よく分かっていない。何が起ったのかを知るには、あとしばらく時間がかかるであろう。
(もう一度、できるかもしれない?)
彼の心は暗かったが、見つからない限りまた繰り返そうと思った。韓信は、森から抜けた。
そのとき。
向うに、次の一団が入れ替わりに森に進んで行った。
韓信は、目を背けようとした。彼らを救うことは、もうできない。
だが、秦兵を引いて行く楚兵たちの中に、彼は思いがけない顔を発見した。
「― 小楽!」
少年兵の小楽が、殺戮の部隊に加わっていた。
部隊は、韓信の目の前をぞろぞろと通過した。やがて、すっかり森の中に入ってしまった。
韓信は、彼らを追って、再び森に入った。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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