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三十二 楚軍を去る(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

歩いて行く小楽に追い付いた韓信は、後ろから彼の肩を掴まえた。

「やめろ!― 小楽。」
小楽は、びくりとした。
彼は、韓信に振り向いた。
韓信は、小楽に言った。
「こんな命令は、聞くな!、、、」
彼が見た少年の表情は、青白く凝り固まっていた。今や周囲の毒気と項王の命令に呪縛されて、心を頑なにしているかのようであった。
小楽は、韓信に冷たく言った。
「― 敵兵です。」
彼はそう言って、小さく鋭く首を横に振った。
韓信は、囁くように言った。
「敵だろうが、お前はこんなことに関わってはいかん。お前は、これ以上この軍に居てはならない。逃げろ、、、俺も、ここから逃げる。」
韓信は、少年の腕を掴んだ。
しかし、少年の腕は、小刻みに震えていた。
小楽は、唇を震わせて、逃げることを拒否した。
彼は、言った。
「韓郎中― 逃げるなんて、言わないでください。項王と共に、戦ってください!」
小楽は、最近軍中で悪評が広まっている韓信と仲が良いので、仲間からひどく非難されていた。
特に年若い彼は、大人たちから難じられることが辛かった。命を賭けて項王と共に戦って来た江東以来の精鋭たちは、少年兵たちにとって絶対の権威であった。精鋭たちが韓信のことを敵に甘すぎると難じれば、それは少年兵たちにとって、そのまま小楽を難じる言葉となった。
「小楽。あの郎中は、、、だめだよ。」
少年兵たちは、小楽に言った。
「だけど、、、」
「あれは、俺たち江東軍に合わない。将軍たちも、言っている。よく、考えるんだな、、、」
軍中の意見にとって、項王の武勇が絶対的な価値となっていった。それほど、項王は軍にとって絶対的な存在であった。皆が項王にひれ伏す中で、韓信だけが調子を外しているように見えた。大人たちがそれを非難すれば、少年たちにとってはすでに善悪の基準であった。
小楽は、まだ少年であった。
はっきりと反論するだけの心を持つには、幼すぎた。
同じ年頃の者たちから投げ掛けられる視線の痛みが、どれ程のものであるか。それは、韓信のような大人たちには、分からないことであった。
だから、小楽は韓信が逃げるなどと言ったことは、到底受け入れることができなかった。
彼は、韓信のために悲しんだ。
「私は、逃げません。逃げません、、、!」
小楽はそう言って、韓信を振り切った。
彼は、遅れを取り戻すために、すでに森の向うに消えた隊列を目指して、走って行った。
「小楽!」
韓信は、取り残されて声を上げた。だが、小楽は振り向かなかった。
やがて森の向うから、整列する足音が聞こえて来た。
処刑が、始まろうとしているのであった。
彼は、処刑の現場に駆けた。
「― 右に、駆けよ!」
軍吏の声が、響いた。
そこに。
韓信は、割って入った。
軍鼓を打つ担当の兵を、突き飛ばした。
彼は、叫んだ。
「― 殺すな!」
その声で、楚兵にも秦兵にも、驚愕の波が走った。
秦兵たちが、今行なわれていることに気が付いた。
大混乱が、始まった。
秦兵たちは、騙されたことに激怒して、楚兵に襲い掛かった。
楚兵は、剣を抜いて素手の秦兵に斬り掛かった。
「おのれ!― 韓信!裏切り者!」
軍吏が、ものずごい形相で韓信を見た。
韓信は、長剣を抜いた。
「誰を、、、誰を、斬れというのか!」
韓信は、剣を持ちながら手を震わせた。
監視の楚兵は、秦兵に比べてあまりに少人数であった。
必死の秦兵が、楚兵を押しまくった。
そのとき。
後方から、集団の悲鳴が聞こえた。
秦兵が、次々に斬りまくられて行った。
だれが、その姿を見誤るであろうか。
項羽が、騅に打ち跨って駆け下りて来たのであった。
彼は、処刑の一部始終を、側近たちを連れて見守ろうとしていた。二十万の死を、崖の向こう側からじっと見ていたのであった。対岸に異変が起こったのを知って、彼はただ一人で騅を駆けさせた。そうして、秦兵を圧倒したのであった。
「― 突き落とせ。」
秦兵を断崖に追い詰めた項羽は、楚兵たちに命じた。
楚兵たちは、電撃に撃たれたように素早く命令に従った。
秦兵は、追い込まれた崖から、塊となって突き落とされて行った。
小楽は、突き落とす輪の中で、熱に浮かされたように叫んでいた。
「殺!、、、殺!」
小楽は、叫んでいた。彼の足は震え、手は空を切るように振り上げ、臆病と見られないように、叫びながら殺戮の現場に留まっていた。しかし、彼は人を蹴り落とすことは、あまりに恐ろしすぎて、彼にはとうとうできなかった。
「や、、、やめろ!」
韓信は、小楽に駆けて行った。
小楽は、きっと振り向いた。
韓信は、怯んだ。
こんなものすごい形相を、あの少年がするとは、想像もできなかった。
小楽は、剣を抜いた。
このままでは臆病と見られることを怖れた少年の、必死の反応であった。
韓信は、長剣を震わせながら、横に薙ぎ払った。
少年が恐ろしくて、何とか追い払うつもりであった。
だが、韓信の剣は、不確かであった。
長剣の切っ先が、小楽の胸を切り裂いた。
小楽は、胸から血を吹き出した。深手であった。
「― 小楽!」
韓信は、駆け寄ろうとした。
だが小楽は、目を怒らせて叫んだ。
「― 裏切り者!」
そう言って、剣を振り切った。
韓信は、彼にざくりと腕を切り付けられた。
避けようと思えば、簡単によけることができた。だが、彼が少年を傷つけた罪は、少年の怒りを素直に受け止めるより、償いようがなかった。
韓信の腕から、血が滴って落ちた。二人の周囲では、さらなる殺人が続いていた。
「裏切り者!」
夢中でうめく小楽の後方に、ぎらりと目が光ったような気がした。
少年の後ろに、韓信は見た。
項羽の、姿であった。
彼が、こちらを見ているかのようであった。まるで、項羽が小楽に乗り移って、自分に言っているかのようであった。
「裏切り、、、者、、、!」
小楽は、血まみれになって震えながら、もう一度言った。
彼は、血と殺人の空気と、項王に取り付かれたかの、ようであった。
韓信は、恐怖に打たれて後ずさりしながら、後退していった。
もはや、この軍中にいることは、できなかった。
彼は、転ぶように、現場から逃げ出していった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章