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三十三 秦の滅亡(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

新安の虐殺を、やむをえない軍事行動であったと見るべきか。それとも、無意味な勝者の暴力であったと批判するべきか。

批判するのは易く、しかし擁護するにはあまりにも無残に過ぎる。
戦争には、死がつきものである。ましてや、秦帝国はまだ完全に終わっていなかった。二十万人の集団に蜂起のおそれがあるという情報を将が受けたならば、先手を打って抹殺すべしと判断したのは、戦争の論理である。
だが、あまりにも数が多すぎて、歴史書を読む者を戸惑わせる。殺されたと記録されている人数の多さが、戦争の身の毛もよだつ本質を、まざまざと見せ付ける。戦争の論理は、こんなにも多くの人間を殺す。その論理の通りに動く者が、古今の英雄と称される者どもなのかもしれない。項羽はあっさりと敵を阬(あなうめ)にして、前に進んだ。
しかし、何とも皮肉な歴史である。
歴史の流れは、項羽のこれからの歩みを追っている場合ではない。
この時期に最も重要な出来事は、項羽と離れた所で起った。
再び、関中に目を移さなければならない。

項羽の軍が、まだ新安に向けて行軍していた頃。
すでに沛公劉邦の軍は、関中の平原を見はるかしていた。
沛公軍は、武関を突破してから藍田で敗走する秦軍を叩き、次々に秦の守備兵たちを降伏させていった。
ついに、秦嶺の隘路を抜けた。
十月、沛公軍は、覇上に至った。
「関中だ、、、」
「これが、関中か。すげえ、、、こんなに隅々まで耕された土地なんて、見たことがねえ。」
「大きな城市が、あちこちに見える、、、屋根の瓦は、何枚あるんだろう。どうやれば、あんなに沢山焼けるんだ?」
諸将たちは、口々に声を挙げて、関中の風景に驚嘆した。彼らの多くは、元はと言えばただの庶民であった。かつて徴発にでも駆り出されていなければ、彼らが関中を見るのは初めてであった。
冬の空は、乾いて済み切っていた。
高い所に登って見下ろすと、遠くに川の流れが見えた。
それは、渭水であった。秦の建国以来、この土地の民を変わらず潤す命の流れであった。
「川の向うまで、見える、、、あれが、咸陽!」
ついに、諸将は視界のかなたに、咸陽城を見た。
咸陽宮の殿舎楼閣の威容は、彼らが知るどの大城市をも、はるかに上回っていた。
それだけでも巨大であるのに、さらに新都心の阿房宮までが建設されていた。
「天下の全ての富が集まる、壮麗な首都か、、、」
そう言って感嘆したのは、蕭何であった。
彼は丞として、これまで常に後方にあった。
彼の軍中の担当は、補給の手配であった。蕭何は戦場には決して顔を出さなかったが、沛公軍が常に時を過たず動くことができたのは、じつに彼が兵卒を完璧に食わせ、眠らせていたからであった。沛公軍がこうして覇上に至ることができたのも、彼の大きな功績があった故であった。しかし、蕭何は決してそれを他人に誇らず、後方で黙々と仕事をこなしていた。
だが、今や沛公がいよいよ関中に入るに至って、彼は呼び寄せられた。呼び寄せたのは、軍師の張良であった。張良は、彼の手腕が必要になると見て、蕭何を咸陽に連れ出したのであった。
「巨大な帝国を動かす、巨大な首都です、、、ここに乗り込んだ者が、最初になすべきことは?」
蕭何の横に、彼を呼び寄せた張良がいた。
蕭何は、張良の問いに、淀むこともなく答えた。
「― 官吏を手なずけ、それから命じることです。よく編まれた組織は、命じればひとりでに成果を返して来るものなのです。」
張良は、蕭何の回答に莞爾(にこり)とうなずいた。
張良は、言った。
「間もなく、秦王は降るでしょう。胡亥も趙高も、死にました。我らは、勝者として秦を受け継ぐことになるでしょう。」
蕭何は、言った。
「― 我らとは、誰のことですか?」
張良は、答えた。
「楚帝国のことです。私の韓もまた、楚の傘下となります。」
だが蕭何は、言った。
「軍師― 誰が上に立つと、思われるか?」
張良は、しばし沈黙した。
それから、首を横に振った。
「わかりません。まだ、分かりません。」
蕭何は、軍師の迷いが真実であることを、理解した。これから先のことは、まだ誰にも分からないだろう。
蕭何は、言った。
「わかりました― 私は、私の非才で出来る限りの仕事を、することにしましょう。」
両名は、関中の平原に目を向けた。
だがこの頃、将の沛公。
彼は、陣営の中で歓喜にあふれていた。
彭越から、沛公に対して定陶の女が届けられた。
戚氏は、彭越が言ったとおりの最上の女であった。
「咸陽よりも、お前を得たことの方が俺の一生の喜びだ、、、はは。ははははは!」
沛公は、陣営の中で笑いに笑った。
戚氏は、たちまちに沛公の心を捕えてしまった。肢体の見事な肉(しし)置きも、媚びるかと思えば冷たく突き放す間合いの上手さも、男を夢中にさせる魔性があった。
沛公は、言った。
「咸陽に乗り込んだら、お前は何が欲しい?」
戚氏は、言った。
「お上が、咸陽の女たちから離れて、賤妾の元におられることです。」
彼女は、そう言って意地悪く笑った。その笑いもまた、男を魅了させた。
沛公は、にやけて言った。
「それは、難しい、、、俺の性は、変えられない。俺以外の者を、ねだれ。」
戚氏は、はっと蔑むようにため息を付いて、それから言った。
「― じゃあ、阿房宮をまるごと下さいな。」
沛公は、目を丸くして叱った。
「この女、大きく出おって、、、身の程を知れ。」
だが彼の表情は、笑っていた。

          

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