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三十一 これが英雄か(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

項羽は、闇の中で一人になった。

「勝ったはずなのに、また戦う。何と、滑稽なことだ。滑稽に、すぎる―」
項羽は、じっと端座して、目を閉じた。
物音一つせぬ時が、しばし流れた。
「― 殺せば?」
闇の中から、声が聞こえた。
「うるさい、、、また、お前か。」
項羽は、声の方を向いた。
「― 邪魔する者は殺すべきだって、考えた。だけど、躊躇(ためら)った。それで、いま一人になって、考えている。」
「出て行け。」
項羽は、黒燕に言った。
黒燕は、項羽の命令を気にも留めず、言葉を続けた。
「あなたは、これまで思った通りに戦って、一度も誤ったことがない。今回も、あなたがするべきだと思ったことが、あった。じゃあ、あなたはそれをするしか、ないじゃありませんか?あなたは、あの始皇帝と同じですよ。頂点に立ったら、心の赴くままに進むより他はないのです。たとえ、それが凡庸な人間たちを、傷つける道であっても―」
「始皇帝、だと?」
項羽は、黒燕の言葉にいら立った。
「私は、始皇帝と同じだと、言うのか!」
黒燕は、項羽の怒りの言葉に対して、優しい声で答えた。
「― そうです。だから、私はあなたが可愛いのよ。」
項羽は、小女兒(こむすめ)の言葉に、ついに怒った。
立ち上がって、剣に手を掛けた。
だが、次の瞬間、小女兒はもう気配を消していた。
項羽は、闇にまた一人、取り残された。
再び、沈黙の時が流れた。
彼は、再び座り込み、目を閉じた。
いつしか、彼の脳裏には、柔らかな影姿が流れるように行き来した。
虞美人が走り去れば、艶やかな髪がゆらゆらと揺れた。
脳裏に浮かんだ彼女は、この上ない笑顔を湛えていた。
項羽にだけしか見せない、笑顔であった。
「追うべきものは― ただ一つ、、、」
項羽は、女を追おうとした。
彼女は、微笑みながら地を蹴った。
彼女が、天に舞った。
着ていた衣が、すらりと脱げて地に落ちた。
「私も、、、天へ!」
項羽は、彼女と共に飛ぼうとした。
だがその時、虞美人がくるりと身を振り向かせた。
それから彼女は、舞い降りて項羽の目の前に立ちはだかった。
項羽は、立ちすくんだ。
彼女は、恐ろしい表情を見せて項羽を罵った。
「― 笨蛋(ばか)!笨蛋!笨蛋!」
彼女の髪が、項羽に絡み付いて彼を縛り上げた。
項羽は、締め付けられてもがいた。
「― お前以外に、私を殺せる者などいない、、、」
髪はますます締め付け、項羽は死を覚悟した。
薄れて行く意識に、虞美人の最後の声が聞こえた。
「笨蛋!」
「そうだ。私は、笨蛋だ、、、」
項羽は、はっと目が覚めた。
闇の中で、再びまどろんでいた。
項羽は、今しがたの夢でぐっしょりと汗をかきながら、まどろみから覚めていく意識の中で思った。
「― 私を、止められる者などいない。虞美人。お前も、そう言っていたな、、、」
項羽は、立ち上がった。
陣営から出て、兵卒に言った。
「黥布と、蒲将軍を呼べ―」
直ちに二人が、項羽の元にやって来た。
項羽は、黥布と蒲将軍に命じた。
「新安の秦兵二十万を、残らず阬(あなうめ)にせよ。奇襲により、秦兵が蜂起する前に完全に包囲するのだ。」
彼らは、項羽の命令に戦慄した。
項羽は、黥布に聞いた。
「新安城は、二十万の兵を中に容れることが、できるか。」
黥布は、うつむいたままで、答えた。
「、、、新安城は、大城です。一時的に容れることは、、、できます。」
項羽は、言った。
「よろしい。ならば、包囲によって逃げ場を断ち、秦兵を城内に収容せよ。その上で、逐次引き出して崖から突き落とせ。」
項羽は、まるで通常の作戦のように平然と命令した。
二人は、項羽の言葉に従わざるを得なかった。
その夜、直ちに楚兵が集結させられた。
兵馬には牧(ばい)が含ませられ、行軍の物音を消した。
楚兵は、新安城の南に終結している秦軍を包囲するために、続々と出撃していった。
陳平は、項王が楚軍に下した命令を、陣営の中で聞き知った。
彼は、その内容を聞いて、一人うそぶいた。
「秦兵は、すでに我が軍の重荷となっていた、、、抹殺するのは、致し方ないことだ。致し方のない、ことであるよ、、、」
だが、彼の表情は石のように冷たかった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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