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三十 覇王残虐(4)

(カテゴリ:楚滅秦の章

自分の幕舎に戻った項羽は、一人で席に座って、長く嘆息した。

「― 取り囲まれている、、、私の周囲には、顔、顔、顔。にやけて笑い、ふるえて怯え、気を回して諂う、、、かき分けてもかき分けても、顔ばかりだ、、、もう、たくさんだ。こんなものを、私は望んでいない、、、」
項羽は、仰向けに寝転がった。
「星が、見たい―」
彼は、外に出て天を仰ぎたくなった。しかし時刻は、まだ夕暮れ時にすら遠かった。幕舎の外は、初冬の弱弱しい日が射す午后であった。
「虞美人―」
項羽は、彼女のことを思った。
彭城での雪中の舞の姿が、目を閉じればありありと浮かんで来た。
「また、冬が来ようとしている。もう、一年になるのか。私は、勝った。勝ったが、まるで滑稽だ。私が顔という顔にひざまずいて囲まれているのを見て、お前はきっと笑うだろう―」
項羽は、目を閉じて眠ろうとした。
幾分の、時が経ったか。
項羽は、横に人の気配を感じて、目を明けた。
彼の横に、小さな影が座っていた。
「、、、また側女が送られて来ましたけれど、帰しましたよ。これで、いいんでしょ?」
影は、柔らかい声で囁いた。
項羽は、眉をひそめて声の方を向いた。
「お前か、、、!また、ここに入って来たか。来るなと、言っただろうが!」
横にいたのは、美しく着飾った少女であった。
黒燕は、にこにこと屈託なく、項羽に話し掛けた。
「でも、こうして戻って来ても、私を斬り殺されはなさらない。だから、戻って来るのですよ。ふふ。」
項羽の元には、最近諸国からしきりに献上品と称して女たちが送られるようになった。彼は、諸侯たちの下劣さに怒り、全て追い返していた。この黒燕も、趙からやってきた少女であった。だが、彼女は何度項羽が追い返しても、いつの間にかまた戻って来て側をうろつくのであった。
項羽は、彼女に言った。
「何度やって来ても、私はお前を必要としない。帰れ。」
黒燕は、言った。
「項王は、お一人でいらっしゃる。男たちは誰も、項王に付いていけないのです。そんな項王のお側にいることができるのは、女だけですよ、、、たとえば、私のような。」
黒燕は、にこやかに笑った。
項羽は、じっと彼女を睨んだ。
この少女は、虞美人とは似ても似つかなかった。しかし、彼はどこかに虞美人の孤独と通じるものを、少女に感じていたのかもしれない。やがて項羽は、軽くため息を付いた。
黒燕は、項羽に言った。
「そうそう。今晩、来客があるようですよ― 秦軍から、使者が参りました。」
項羽は、黒燕に聞いた。
「秦軍?」
黒燕は、答えた。
「はい。降伏した秦軍の、二名の上将軍が来られるそうです。」
上将軍とは、司馬欣と董翳のことであった。
二名はもと秦の官吏であったが、章邯を降伏させるに当ってよく働いた。その功績のために、楚によって上将軍に任じられた。だが降将として彼らは、降卒二十万の指揮をさせられることとなった。章邯は雍王に封じられたが、楚の軍中に留め置かれた。彼に秦兵を指揮させることを、恐れたからであった。
夜、彼女の告げたとおり、司馬欣と董翳が項羽のところにやって来た。
二名は、項羽の前で深く平伏して、恐れて顔を上げることもしなかった。その諂い方は、諸国の将官たちよりもさらに卑屈であった。降将ゆえに、彼らは項王の機嫌を損ねまいと戦々恐々であった。
項羽は、彼らを見てまたも機嫌が悪くなり、怒鳴るように言った。
「― 両将。私に重大な注進とは、何か!」
司馬欣は、項羽の大声に体を震わせながら、言上した。
「― し、、、秦軍の中で、間もなく蜂起が起ります、、、」
項羽は、目を怒らせた。
「蜂起?」
董翳は、下を向いたままで、答えた。
「、、、降伏した秦兵は楚兵の仕打ちに怒り、軍吏らが計画して楚と戦おうと企んでいるのを、臣らは掴みました。それで、臣らは取るものも取り合えずに、項王にご注進に参上いたしました、、、」
項羽は、彼らの言葉を聞いて、脳天に血が昇った。
現在、秦兵は函谷関への先鋒として、新安に駐屯していた。
もしここで秦兵二十万が一斉に蜂起すれば、関中への道は完全に塞がれることになる。下手をすれば死にかけていた秦帝国が、息を吹き返すかもしれない。
項羽は、激怒した。
「― 両名は、配下を抑えることもできずに、逃げて来たというのか!」
司馬欣と董翳は、叱責されてうろたえ、しどろもどろに答えた。
「わ、、、わ、、、我らは、秦兵から憎まれております。ゆえに、、、我らの指揮に、卒吏は従おうとしません。卒吏は、秦を攻めることを怒っているのです。それで、兵器を奪って楚軍を襲撃しようと計画しております。ぐずぐずしていると、、、重大な結果に。そう、重大な結果に!臣らはそれゆえ、こうして駆け付けたのでございます。項王!」
司馬欣と董翳は、当然のことながら秦兵たちに全く人気がなかった。裏切り者の彼らは、秦兵たちの中で完全に孤立していた。指揮は行き届かず、毎日が殺意を感じながら怯えて暮らしていた。秦を裏切った代償とは言え、彼らは今や上将軍の職務から逃げ出したい思いで一杯であった。
「もう、よい。下がれ!」
項羽は、二人の上将軍を、追い払った。
それから彼は、急いで黥布を呼んだ。
巨体の黥布が、陣営にやって来た。彼もまた、項羽の前に進むと他の諸将と同じく、平伏した。
項羽は、すかさず黥布に近寄り、耳打ちした。
「一つ、聞く。このことが、できるか―」
黥布は、固まったように無表情になった。
それから、言った。
「奇襲すれば、、、」
両者は、しばし沈黙した。
黥布が、口を開いた。
「それをなさる、おつもりですか?」
項羽は、彼の問いに答えなかった。
再び、沈黙の時が流れた。
項羽は、黥布から離れて、奥に歩を進めた。
「少し考える。私を、一人にさせよ―」
彼は、周囲の兵卒に命じた。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章