«« ”三十 覇王残虐(2)” | メインページ | ”三十 覇王残虐(4) ”»»


三十 覇王残虐(3)

(カテゴリ:楚滅秦の章

このころ項羽は、全軍の総指揮として後方を進んでいた。

彼の留まる陣営に入ると、将軍も官吏も兵卒も、おしなべて皆が平伏した。彼らは、項羽の陣営に進むや否や、顔を上げることすらできなかった。楚の将兵のみならず、他国の将軍ですら、同じような有り様であった。
項羽が、そのように命じたのではなかった。
この奇蹟の男に対して、人々はどのように対処すればよいのか、途方に暮れた。
彼は、これまでの中国の常識を超えた男であった。
それで、項羽から遠い各国の百官将軍たちがまず、この男を拝み始めた。
拝んで平伏することによって、彼との接触を避けようとしたのであった。
位高い者たちが拝み始めると、すぐに下の者どもが倣った。
宮廷が、項羽の周囲で始まった。
項羽は、周囲が愚かな芝居を始めた姿に、嫌悪の感を持った。
だが、それを止めさせようと怒れば、余計に相手は怯えるだけであった。もはや、項羽が彼らと対等の立場に立つことは、できなかった。項羽は、拝まれながら日々を過した。日々を過しながら、彼は嫌悪感をつのらせていった。
「― どうして、こんなに行軍の速度が遅い。二月以上も経って、まだ函谷関にたどり着かないとは!」
項羽は、怒った。彼の前には、秦に向けて行軍する各軍の諸将が、平伏していた。
各国から集まった諸将は、震えて恐れるばかりであった。
将軍たちが誰も口を開けない中で、ひとり陳平が項羽に答えた。
「我が軍は、すでに四十万に達しております。さらに、降伏した秦軍二十万までが加わっております。この大人数を動かすことは、その食を用意するだけでも大変な費えとなります。道々の諸国は連年の戦に疲弊し、徴発する糧食すらありません。遠方より食を補給するために、どうしても兵の足が鈍っているのです。」
致し方のない、事情であった。もはや大勢は決した今、民から無理に徴発することは今後の統治のために行なうべきではなかった。すでに現在は、大局的に見れば戦後なのであった。
だが、項羽は説明を聞いても、いら立ちを抑えることがなかった。
「大軍などは、要らん。この私一人で、函谷関を破ってくれよう、、、騅を出せ!私は、駆ける!」
彼は、平伏する男たちなど、もう要らないと思った。江東の勇士たちだけで、彼には十分であった。誰が、今の項羽の道を阻むことができようか?
このとき范増は、項羽の後方に控えて沈黙していた。
彼は、項羽が逸って今にも飛び出そうとしたとき、一喝した。
「― 待たれよ!」
項羽は、後ろからの亜父の声に、振り向いた。
范増は、若い項羽に、静かに言った。
「あなたは、もはや一武将ではないのです。あなたが一人で駆ければ、各国の諸将は途方に暮れるばかりです。全ての者が、あなたのように力があるわけではないということを、知りたまえ、、、いつまで、若いままでおられるのか?」
今や、項羽に進言できる大人は、亜父の范増ただ一人となっていた。范増は、項羽に何としても天下を取って欲しかった。それが、死んだ項梁に報いる道だと思っていた。だが范増は、項羽という若者について、どのように評価するべきかよく分からなかった。項羽は、范増の常識もまた大きく超えた天才であった。
しかし、彼がこれまで七十年間を生きてきた経験が、彼に一つのことを教えていた。
(― 一人で走りすぎると、他人は付いていけない。多くの人の上に立つ者は、他人に合わせて歩みを遅らせなければならないのだ。)
項羽が多くの奇蹟を成し遂げた今、彼のこの思いはますます強くなっていた。
(この子は、これから王としての道を学ばなければならぬ、、、だが私の命が、それまで保つだろうか?)
范増は、彼を諌めることができる老人として、自分の残された年月の短さを憂えていた。
亜父に言われて、項羽は何とか留まった。
だが、心中のいら立ちは、静まることがなかった。
彼は、つぶやいた。
「― このままでは、沛公が咸陽を陥としてしまう、、、!」
陳平は、平伏しながら項羽のつぶやきを、黙って聞いていた。
項羽軍と沛公軍は、協同して関中を攻める連絡を取っていた。
だが項羽軍が遅々として進めない間に、沛公軍が武関を取って一日一日と咸陽に肉薄していた。
陳平は、内心で計算違いをしたと思っていた。
(沛公は、食わせ者だ、、、咸陽を取れば、何かやらかすかも知れない。)
彼は心中を隠して、項羽に言上した。
「沛公といえども、項王こそが秦を破った第一の功績であることは認めております。たとえ沛公が咸陽に先にたどり着いたところで、やがて項王が関中に入った際には、必ずや咸陽への道を掃き清めてお待ちすることでしょう―」
項羽は、陳平の言葉を虚ろに聞き流した。
陳平は、思った。
(もし、沛公が事を起こすならば、、、)
項羽は、口中で念じた。
(関中、、、関中の王、、、彭城で、約束したことであったな。)
以前、楚の諸将の前で、懐王が約束した言葉であった。

― 一番先に関中に入って定めた者を、その地の王としよう。

項羽は、すっかり忘れていた彭城での約束を、思い出した。
(彭城、、、虞美人!、、、)
項羽の脳裏に、彼女の笑顔が閃いた。
陳平は、彼の前で相変わらず平伏しながら、思った。
(もし、沛公が関中で事を起こすならば、、、踏み潰すのみ。)
項羽は、諸将に嫌気が差して、席を立った。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章