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三十 覇王残虐(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

韓信は、楚軍で軍紀が守られなくなり始めていることに、憂色を強めていた。

恨み重なる秦に勝利した、ということが、将兵の奢りをとめどなく大きくしていた。
行軍の途上の城市では、観念した秦軍が散発的に降伏していった。
その降伏した秦兵たちに対して、楚兵はしばしば残虐な仕打ちをした。
兵卒だけの暴走では、ない。指揮する上官までもが、猛る兵卒たちを煽り立てる有り様であった。
「存分に、楚人の怒りを見せるがよい!これまで、我らは秦にどれだけ惨い仕打ちをされたか!」
このように上官から言われると、兵卒たちは皆それぞれに思い当たることがあった。
秦から派遣された郡守、県令どもが、どれだけ郷里をひどく搾取したか。
どれだけ多くの子弟が罪人として捕えられて、辺境や咸陽に送られたきり帰ってこなかったであろうか。
郷里の者どもがどんなに郡県に窮状を訴えても、彼らは咸陽の方ばかりを向いて郷里の声を聞こうともしなかった。その上、咸陽の皇帝は長城やら巡幸やら阿房宮やら、次々と計画しては郷里に徴発を加えるのであった。それらは秦の政府が悪いのであって、兵卒は同じ被害者でしかないなどという言い訳は、とても怒りに燃えた楚兵の耳に承知できるものではなかった。秦人は、全てが我らの仇であった。
「― 俺の母親は、食う米すら取られて餓え死んだ!」
「― 俺の二人の兄は、罪を受けて長城に送られた。ついに、帰って来ない!」
「― 俺の姉は、困窮の末に、売られてしまった!」
「― 俺の妹は、県令に目を付けられて、咸陽の後宮に徴発されることになった。妹は、悲しんで川に身を投げた、、、お前たち、秦が殺したのだ!」
兵卒たちは、復讐の心を燃え上がらせた。
あちこちで、殺人が起こった。
今回の行軍中に起った騒動も、最近の楚軍の中で充満していた空気が反映したものであるに、間違いなかった。
韓信は、騒動に加わった楚兵たちを集めた。
軍規に基づき、彼は最初に手を出した兵卒を、全員の前で斬に処した。
「軍中で私闘は、厳禁である。今後、諸君は決して行なってはならぬ、、、」
だがそう宣言した韓信を見る、楚兵たちの視線は冷ややかであった。
韓信は、いたたまれなくなって、陣営に引き込んだ。
陣営には、鍾離昧がいた。
彼は、韓信と同じく、秦軍の監視に当っていた。
鍾離昧は、韓信に言った。
「韓郎中。君は、厳しすぎるよ。」
韓信は、その言葉に怒った。
「軍規を失っては、兵は烏合の衆でしかない。あなたは、人が無軌道になればどれだけ恐ろしい集団と化すか、分かっていない。」
鍾離昧は、韓信に忠告するように、言った。
「君が軍規を守ろうとするのは、よく分かる。だが、そのために君は兵たちからますます悪評を受けるだろう。今日のことでも、兵たちは君がまるで秦軍の味方をしていると怒っている。私は、君のことを心配して言っているのだ。このままでは、君は楚軍に居場所がなくなってしまうぞ。」
彼も、軍中の空気が変わってしまったことに多少戸惑いを覚えていた。だが、項王の下で奇蹟の勝利を収めた兵卒たちであった。その功績には、誰も文句を言うことができなかった。それで、鍾離昧は、韓信に対して全体の空気に順応する道を選んだほうがいいと言っているのであった。
韓信は、しかし彼の言葉を聞いて、さらに怒った。
「秦の味方とか、敵とかではない!、、、兵とは、凶器を持って人を殺すことが許されている存在なのだ。規律を与えて使うべきときに使わせなければ、ただの殺人集団でしかない。今の楚軍は、暴徒と変わらなくなり始めている。これでは、いずれ重大な結果となるだろう。私は、ただ憂えているのだ!」
鍾離昧は、気まずい表情をして退出していった。
その後、韓信は少年兵の小楽を呼び付けた。
小楽は、今日の騒動の中で、楚兵の中にいた。
韓信は、彼が乱闘の中にいたのを見掛けて、怒って呼び付けたのであった。
韓信は、小楽に言った。
「― どうして、お前まであの中にいた。」
小楽は、下を向いたままで、答えなかった。
韓信は、怒気をあらわにして、言った。
「いつも、言っているだろう!軍規は、兵の一番大事なものだ。お前は、軍吏になるのではなかったのか。周りの愚か者どもに、調子を合わせるな!」
だが小楽は、小さな声で答えた。
「― みんなは、一緒に戦った仲間です。愚か者じゃ、ありません。」
韓信は、言った。
「仲間かも、知れん。だが、降伏した兵を虐待することなど、真似てはならん。最近、軍中で責任ある大人までもが、復讐を叫んでいる有り様だ。お前は、ああいう大人たちを見習ってはいかんぞ。」
韓信は、切々と小楽に説いて聞かせた。
小楽は、素直な子であった。韓信の言葉を、分かったように聞いていた。
(この子だけは、分かってくれるだろう―)
韓信は、そう心に、願った。しかし、素直な子であればある程、周囲の空気には反応しやすくなるものである。いま、楚軍の空気は異様なものと、なり始めていた。韓信は、鍾離昧からも心配されたように、最近の楚軍の空気の中で孤立し始めていた。
小楽を返した後で、韓信は思った。
(もう、楚と秦との勝負は付いた。今は、目先の戦よりもこれからの政治を考えるべき時だ。だが、項王の考えはまだ分からない、、、)
韓信は、項羽のことを思った。
最近、項羽は以前より近づき難くなった。
諸侯を武威で圧し、兵卒たちの神となった彼が韓信にとって遠くの存在となったことは、当然のなりゆきであった。
だが、項羽自体もどこかしら変わったような印象を、韓信は持っていた。
(項王は、人を見なくなった、、、)
韓信は、最近の項羽が自らも人々を置いて行って進もうと望んでいるように、感じた。天才の彼は、もはや誰も必要としていないようであった。韓信は、そのような項羽を動かすことは誰にもできないのではないかと、思った。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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