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三十四 天命を信じろ!(3)

(カテゴリ:楚滅秦の章

沛公は、張良に言い返した。

「咸陽の主が、天下一の盗賊だ!ここに積み上げた富は、六国から盗んだものではないか。だから、我ら民の手に返してもらうまでよ、、、わはははは。」
沛公の哄笑に、兵卒も釣られて笑った。張良は、嘲笑にさらされることとなった。
張良は、ここに至って断固として命じた。
「― 樊噲。公の目を、覚ましてやれ!」
彼は、後ろに控えていた樊噲に命じた。
彼は黙ってうなずき、堂上に上がった。
それから沛公の玉座に近づいて、静かに言った。
「― 公は、そこに座るのはまだ早うございます、、、」
樊噲は、沛公をつまみ上げた。
「あっ、、、」
沛公が言葉を発する前に、樊噲は片手でひょいと主君を投げた。
沛公は、もんどり打って床に転がり落ちた。
「このっ、、、樊噲!何をするか!」
沛公は、怒って樊噲に食って掛かった。
樊噲は、どかりと床に座った。
彼は、主君を目の前にして、口を開いた。
「― 公よ。どうか軍師の言葉を、聞きたまえ。この臣、命を差し出してもお諌め申し上げまする。」
そう言って、彼は伏して主君に願った。
沛公は、樊噲の前で言葉を詰まらせた。
樊噲は、伏したままで言葉を続けた。
「公のお言葉で、十万の兵が右にも左にも、動きます。あなた様は、人の上に立つお方なのです。どうか、志を持って進まれよ、、、」
堂上にいた諸将は、樊噲が主君にこのような進言をする姿を、初めて見た。彼らは、樊噲の勇猛さについてはよく知っていた。だが、この猛将は常に寡黙であった。長年付き合っていた沛の者たちでも、彼がいったい何を考えているのかよく分からなかった。だが樊噲は、主君の言葉で浮付いてしまった諸将の中で、ただ一人張良と共に主君を諌める道を知っていたのであった。
樊噲の言葉を、張良が継いだ。
「賢成君(樊噲の封爵)は、真の忠臣です、、、公よ、目を覚まされよ!」
沛公は、しかしそれでも引き下がらなかった。
「ここまで苦心したのに、何もせずに引き下がるというのか。関中を取ったのに、あきらめて去れというのか!、、、関中は、俺のものだ!項羽になど、やらん。絶対に、やらん!」
沛公は、本音を出した。
彼は、関中が何としても欲しかった。
だが、項羽もまたこの関中に迫っていた。関中を得るためには、きっと項羽と戦わなければならないだろう。だが項羽は、強すぎる。このとき沛公は、項羽に勝てる自信が全くなかった。彼の掠奪は、半ば自棄(やけ)であった。ここで配下を楽しませた方がこれからも自分に付いてくるだろうと考えた彼は、張良の言うとおり盗賊の思考に陥っていた。
沛公は、樊噲を罵った。
「将は、この俺だ!、、、俺は、誰にも指図されぬわい!」
ついに、樊噲は立ち上がった。
「― 将の資格は、ござらん!」
そう言って、彼は一拳を振るった。
沛公は、ついに堂下に吹き飛ばされた。
樊噲にとっては軽く拳を振っただけであったが、何せ彼の怪力であった。軽くでもその拳を食らえば、沛公はしばらく立ち上がれなかった。
樊噲は堂上で座り、剣を抜いた。
「主君に手を掛けました。死して、お詫びつかまつります―」
彼はそう言って、剣に手を掛けた。
沛公はようやく顔を上げて、まだ朦朧としている意識の中で言った。
「ま、、、待て。樊噲、、、」
そのとき。
後方から、一団の人間たちの足音が、宮殿の中に響いてきた。
沛公を始め諸将が、足音の方角を向いた。
宮殿に、整然と並んだ集団が入って来た。
その先頭にいたのは、蕭何であった。
彼の後ろには、周昌と周苛がいた。
そして彼らの後ろに並んだ集団について、蕭何が沛公に言上した。
「― 秦の朝廷に仕えていた、百官たちです。これから先、公の力強い力となることでしょう。」
周苛が、号令した。
「礼!」
彼の号令に従って、官吏たちは一斉に跪(ひざまず)いた。
彼らは叩頭の礼を行なって、沛公を迎えた。
蕭何が、沛公に言った。
「我らによって、百官は治められました。まずは、政権を受け継いだ者として、民を安心させなければなりません。この秦の地にも、こうして人がいるのです。公は、この多くの人をどうなされるのか?まさか、一介の幸運な賊で終わろうというお方では、ないでしょう?」
そう言って、蕭何はおだやかに笑った。
「う、、、そうか。」
沛公は、ついにおとなしくなった。
彼は、目の前の光景を見て、一人うなずいた。
「そうか、、、そうか。俺は、なかなか大したもんだな。」
彼の手元には、こうして人材がいた。
張良。
蕭何。
樊噲。
そして、夏候嬰や曹参など、沛以来の股肱たち。
沛公が今まで力を得て来たのは、じつに人材を得て来たからではないか。
もしここで自棄になれば、完全に敗北であった。
沛公は、自分には最高の者たちが付き従っていることを、ようやく思い出した。
彼らの期待を、決して裏切ってはなるまい。
沛公は、目を閉じて、しばし沈黙した。
彼の表情は、先程堂上で宣言した頃と、一変していた。変わり身の早さは、彼の信条とも言えるものであった。
沛公は、声の調子を低く震わせて、言った。
「― よきかな、張子房の言。」
それから、目を見開いて、左右の配下たちを見回した。
彼は、言った。
「樊噲、それでこそお前は我が股肱だ。さすがに、蕭丞相は我が軍にまたとなき男、、、俺が、間違っていた。俺は、もう泗水の亭長でも、秦に追われる盗賊でもない。」
そう言って、彼は哄笑した。今度こそは、自信を取り戻した笑いであった。

          

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第二章 伏龍の章


           
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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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