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三十四 天命を信じろ!(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

沛公とその一行は、咸陽宮にいた。

皇帝の玉座に、沛公はどっかりと腰を降ろしていた。
もちろん彼は、この時点ではまだ楚王配下の一諸侯でしかない。だが、彼は敵の降伏を受け入れた将として、当然のごとく宮城を占拠した。彼がまだ王でない証拠に、夏候嬰ら彼の側近たちは、沛公と一緒に堂上に登っている。沛公の一行は、占領者たちであった。
玉座の前に、張蒼が進み出た。
彼はもと秦の御史であって、秦帝国の組織の中枢で勤めていた。この咸陽のことも、彼は知り抜いていた。張蒼は、咸陽で接収されるべき殿舎、宝物、糧秣、兵馬、奴隷について、その目録を淡々と読み上げて行った。
「、、、玉器。大璧二千四百二十六枚、小璧一万三千六百三十三枚、、、」
誰も聞いたことがないような単位の数が、次々に飛び出して来た。諸将は、その数を聞くたびに興奮していった。首都に収められた富は、その数を聴くだけで人にとって酒を呷るように効いた。
「、、、黄金。国庫及び、帝室の所有分を総計して、十二万四千二百十七鎰、、、」
「― ひええっ!」
諸将が、一斉に声を挙げた。
官吏が提出した数字の正確さが、聴く者にさらに衝撃を与えた。沛の田舎者どもは、「黄金百鎰(いつ)」という言葉しかこれまで聞いたことがなかった。百鎰の黄金とは、無限の富を表す誇張した表現であった。もちろん、百鎰の黄金など庶民は決して見ることも触ることもできない。
沛公は、無言で報告を聞いていた。彼は玉座に腰掛けたまま、一言も声を挙げなかった。彼は、口を閉じて頬に片手を当てながら、聞き流すかのような姿勢であった。だが、彼の目だけはぎらりと妖しく光っていた。
張蒼の報告は、死物から生物の捕獲品へと移っていった。
「、、、馬。雄馬六万八千五百十一匹、牝馬、、、」
曹参は、思った。
(これだけの富を持った秦が、どうして亡んだのか?、、、)
じつに、秦は亡びるほどに国力が衰えていたわけではなかった。もし始皇帝の統一がなければ、秦は相変わらず強国のまま存続していたであろう。だが、始皇帝の統一があまりにも急激な改革を行なったために、彼の死後に諸国が一斉に反発してしまった。秦は、戦国を勝ち抜いて征服したことによって、頂点から一転して追い詰められてしまった。秦は、歴史の中で憐れな役目を振り当てられた国家であった。
張蒼は、人間の捕獲品も報告した。
「、、、童僕、七百七十四名。楽人、三百八十二名。力士、四百九十名。掃除隷僕、千八百十九名、妾婢、千八百八十六名、、、」
皇帝のために、宮廷内で飼われていた奴婢たちであった。ただ一人の人間の楽しみのために、これほどまでに多くの人間たちがあてがわれていた。これが、宮廷であった。その巨大な集団は、皇帝一人ではとても管理することなど不可能である。そのために去勢された宦官が、宮中に送り込まれる。やがて彼らが皇帝を篭絡して、皇帝の代わりに権力を濫用するようになるのだ。それは、自然な成りゆきというものであった。
張蒼の長大な報告は、終わった。
堂上の者たちは、その驚くべき膨大さに、疲れ果てたかのように皆座り込んだ。
沛公は、堂下の報告者をにらみつけた。
皆が、押し黙る彼に注目した。
沛公は、やおら立ち上がった。
彼は、言った。
「― 人生、四十を過ぎれば、いつ死が来るかも、分からない、、、」
それは、自分に対して言っている、言葉のようであった。
彼は、続けた。
「これほどの、富を得たのだ。今の今を楽しまんで、明日に何か、楽しいことがあるだろうか、、、どうせ、俺たちは庶民にすぎぬ。利益がなくては、辛苦の仕様もない。」
堂上から、彼はまるで不遜な物言いをした。
ついに、沛公は、言い放った。
「勝者の権利だ、、、この咸陽の富、諸君で分け取りにせよ。もはや、思うさまよ!」
彼の言葉を聞いて、宮殿内にいた者どもが、うなりを上げて叫んだ。
「ええっ!、、、ええっ!」
沛公は、もう一度叫んだ。
「取れるだけ、取れ!恩賞だ!征服者への、恩賞ってものだ!」
各人は、将から兵卒まで、歯の根が震えた。
取り尽くしても取り切れない程の、富であった。
信じ難いことが許されたとき、恐怖が先に立った。
次の瞬間、各人が左右を見回し始めた。何から始めればよいのか、一斉に考え出したのであった。堂上から見れば、面白いように全員が同じ動作をしていた。
「― 宝物は、どこだ!」
「― 黄金は、どこに隠しているんだ!」
「― 後宮は?ねえ、後宮はどこ?」
者どもは、張蒼に殺到して口々に問い詰めた。
全員の目が、血走っていた。
殺されそうな危険を感じて、張蒼は震えながら指差した。
外の、宮門の方角であった。
「あっちか!」
将も兵卒も、駆け出した。
欲望の嵐が、外に出ようとして殺到した。
だが、次の瞬間。
彼らが宮殿から飛び出ようとしたとき、将卒どもは、壁に当ったかのように跳ね返された。
外へもがき出ようとする者どもは、次から次へと投げ飛ばされていった。
「― 誰一人、外に出すな!囲め!」
優しい男性の声が、力いっぱいに響き渡った。
外への道を塞いだのは、樊噲であった。
男性の声は、張良であった。彼は、樊噲と共に兵卒を率いて、咸陽宮を囲んだ。掠奪に向かおうとする者を、ことごとく押し止めようと必死に指揮したのであった。
外への道を塞いでから、張良は樊噲を連れて宮殿に入った。
張良は、堂上の玉座にいる沛公を、じっと見た。
「― 掠奪を、禁じられよ。勝者が掠奪をしては、治まることができません。」
沛公は、玉座から言った。
「できん。」
張良は、言った。
「秦は、亡びました。新しい治世を、これから作らなくてはならないのです。それなのに掠奪などしては、民は誰を頼ればよいのですか!それを、将が自ら盗むことを許すとは、、、盗賊かっ、あなたは!この天下は、盗賊ごときに与えるものなど、何一つないぞ!」
張良が、これほどまでに怒気を顕わにするのは、初めてのことであった。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章