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三十四 天命を信じろ!(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

降伏を受け入れた沛公の一行は、咸陽城に向けて進んでいた。

「俺たちが沛を取ったのは、ちょうど二年前だったな、、、」
灌嬰が、言った。
首脳たちの後ろには、兵卒の一団が従っていた。万一の抵抗に備え、巨大な城市を接収するための手数であった。数は万を越えていたが、この想像を絶する大城市を支配するためには、これでも少ないかと思われた。
兵卒を指揮するのは、これまで歴戦して幾多の勝利を重ねて来た、建成君曹参であった。
「二年間、か、、、まるで、夢中であった。今生きているのが、信じられないぐらいだ。」
曹参は、自分の心境を述べた。まさか自分がこれ程までに戦場の男であるとは、自分自身も知らなかったことであった。
沛公の馬車を操るのは、もちろん夏候嬰であった。
「― いい、馳道だ。塵埃(ほこり)一つ、立たない。さすが、咸陽ですなあ!」
夏候嬰は、わざと陽気にはしゃいでいた。陽気にでもならなければ、今起っていることを理解できそうもなかった。二年前、逃亡していた劉邦を迎え入れて、城市を手に入れた。沛公として旗上げはしたものの、吹けば飛ぶような小さな勢力に過ぎなかった。それが、今やあの秦を亡ぼして、その首都を受け取ろうとしているのであった。あまりの変化に、脳中が現実に追い付くことをいまだに拒否していた。
沛公の席の左右には、周勃と廬綰がいた。
二人とも、沛公が泗水の亭長として遊び呆けていた頃から、付き従っていた。
二人は、顔を見合わせて苦笑していた。
彼らの真ん中にいる主君は、寝息を立てていた。
昨晩は、戚氏を寝所に連れ込んで、思う樣であった。
閨房での疲れと馬車の快適な揺れに誘われて、秦を受け取った男は眠りこけていた。
「まあ、人物というか、、、」
廬綰は、あきれながらも親しく沛公を見た。幼少の頃からずっと彼の側に従って来た、義弟であった。廬綰は、郷里から白い目で見られながらも彼に従い続け、そして彼のせいで何度もひどい目に遇った。それでも見捨てずに付いて行ったのは、劉邦という男を放っておけないと思ったからであった。この放蕩人が善いことであれ悪いことであれ何かを行なったとき、きっと自分は側にいたいと思っていた。今、この男と共に咸陽に入城しようとしていることは、善いことなのであろうか。それとも、不吉な前兆なのであろうか。廬綰には、分からなかった。
馬車の横には、巨体の樊噲が伴って歩いていた。
彼は、無言で前方を見据えながら、大股で進んでいった。
彼もまたこれまで大きな武勲を挙げ続けて来たが、功により爵位が進んでも彼は変わることがなかった。今、咸陽への行進においてもまた、樊噲は自らの歩みで沛公の隣にいた。
そして、張良子房。
彼は、このとき韓軍の将として行進の列にあった。
彼もまた、馬車に乗っての入城であった。病弱ゆえに、致し方のないことであった。
彼は、沿道に人の姿が全く絶えている光景を見て、思った。
「わが韓が亡んだ時と、全く同じだ。民の反応は、常に変わらない、、、」
おそらく、秦人たちはどこの家でも同じように過しているであろう。
国が敗れたとき、人民が真っ先に思うことは、悔しさでも憤りでもない。そのような感情は、ずっと時が経って事態が明らかになってから沸き起って来るものである。
「― 恐怖。」
ただ、負けた国の民が思うことは、勝った敵に対する恐怖だけであった。
「どこの家でも、家族が皆じっと固まって震えながら待っているだろう。明日は、来るのであろうか?明日には、どのような仕打ちが待っているのだろうか、と、、、」
張良は、無数の声なき声を聞くようで、深く嘆息した。
この行軍の列には参加していない、面々もいた。
酈商は、別働隊を率いて漢中平定に向かっていた。秦の残党が、この地を通って巴蜀に逃亡するのを防ぐためであった。だが沛公軍が漢中を占領したことは、後に彼らにとって大きな意味を持つことになる。
蕭何の姿も、見えなかった。
彼とともに、もと郡吏の周昌と周苛、それにもと秦の御史であった張蒼も、姿が見えなかった。彼ら文官には、兵馬を進める以外になすべきことがあった。蕭何は、彼ら信頼できる文官たちを率いて、軍よりも先に咸陽城の中に消えて行った。
冬の関中の風が、冷たく行軍の横を通り過ぎた。
空の色は、悲しむかのように陰鬱であった。
行軍が近づくに連れて、巨大な城門が眼前に広がり始めた。
城門が、ゆっくりと開いていった。
行幸する皇帝と、君命を受けた秦軍だけが通ることを許された門であった。その門に、いま秦以外の者が入っていく。
「これが、咸陽か―!」
夏候嬰は、城門をくぐった次の瞬間、うなった。
遠くまで、大路が真っ直ぐと続いた。
無計画に拡がった彭城などと違い、始皇帝が即位してから計画的に整備した都であった。東西南北に伸びるどの通りも、直線に引かれていた。
大路の両腋には、信じ難い程に巨大な建築が、びっしりと並んでいた。帝国を支える官吏たちが執務する、官舎の群れであった。この地区から、秦帝国の全ての法が、流れ出していった。荘厳な官舎は、秦帝国の暗い魂が宿る、神殿というべきであった。
官舎や住居も見事であったが、数々の宮殿はそれ以上に圧倒的であった。
始皇帝は、亡ぼした六国の宮殿を解体して、それらをそっくりそのまま咸陽に移し変えた。華美を極めた諸国の宮殿は、いったい幾つの殿舎楼閣から成っているのか、数えようにも数えることができなかった。
行軍する者たちは、次第に皆が呆然とした表情に変わって行った。これほどに富んだ都は、楚の田舎者たちの誰も想像することができなかった。
「この都が、我らの手に、、、?」
廬綰は、言葉を続けることができなかった。
彼は、横を見た。
周勃が、口を開けたままで呆けていた。
「あっ、、、!周勃、お前!」
廬綰は、下を見て眉を顰めた。
周勃の股を見ると、失禁していた。
廬綰は、ため息を付いた。
「― おい。足が温かいぞ、、、何だ?、、、うわっ!」
ようやく目を覚ました沛公は、馬車の中で飛び上がった。まるで、沛の時代そのままであった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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