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三十五 法三章(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

目を覚ました沛公は、将兵に一切の掠奪を禁じた。

秦の全ての宝物は封印され、軍は再び覇上に返された。咸陽のことは、降った官吏たちに一任されることとなった。こうして、秦の組織は沛公に従うこととなった。このことは、彼が目に見える軍事力とは違った大きな力を手中にしたことを意味していた。
「郷里の父老を、呼び集めろ。関中一円の父老を、我が元に集めるのだ。」
沛公は、蕭何に命じた。
蕭何は、言った。
「父老の信任を取れば、郷里の支配は万全となります。やはり、そこに目を付けられましたか、、、」
蕭何は、主君の勘の良さに莞爾(にこり)とした。さすがに、沛の草莽からのし上がった男であった。人民を押さえるために必要な急所を、沛公は知っていた。
蕭何は、言った。
「郷里の人民は、不安に怯えています。今、彼らに無理な要求をしては、なりません。下の怒りを買えばやがて上を突き崩すことは、楚が秦を倒したことで、公もよくお分かりのことでありましょう?」
沛公は、笑って言った。
「まず、俺に任せておけ―」
彼は、自信満々であった。彼には、人民が何を考えているのかが、手に取るように分かるのであった。
直ちに、関中の諸県の父老と豪傑たちが、覇上に集められた。
「上下の礼などは、抜きだ。平伏などは、要らん。」
居並んで頭を下げる男たちに、沛公は言った。
沛公は、顔を上げた者たちの、顔を見回した。
沛公は、思った。
(さすがに、秦の男たちだ。ふやけた魏や斉の国人とは、面構えが違う―)
彼らは、秦の地生えの者どもであった。だいたい秦国は後進国であったために、外国から人材を積極的に登用して爵位を与えるのに熱心であった。始皇帝が天下を統一した後には、首都咸陽に全国の豪傑富家十二万戸を集めることさえした。彼ら外国人はおおむね咸陽に暮らし、高位の官職はあらかた彼らのものであった。しかし、秦国を強大ならしめた本当の力の根源は、土地の素朴な人民たちであった。彼らは中原諸国の民のような抜け目の無い狡猾さを知らず、国のために働く忠節の健児たちを黙々と産出した。この土地に地盤を持っていたからこそ、秦国は強大となったのであった。
この覇上に集まった男たちは、あるいは死をも覚悟していた。もし占領した敵が無道を行なおうとしているのであれば、断固としてここで抵抗するつもりであった。そうして自分たちは殺されるであろうが、その代わりお主らが我らの子弟を従えることは、永久にできぬと思うがよい― 彼らの目は、それを沛公に語っていた。
沛公は、控えていた軍吏に向けて、言った。
「― 酒食は、なしだ。この場には、必要にあらず。」
そう言って、用意していた宴席を、取りやめにした。
饗応して機嫌を取るよりも、実を示すべきである。沛公は、そう思った。
隣には、蕭何が控えていた。
彼は、すでに秦の官吏を指揮下に置いていた。かつて彼は郡県にあり、その将来を嘱望された能吏であった。咸陽に昇進できるという話も、あった。だが結局、彼はこの沛公劉邦をかばうために、咸陽に行く道を自ら断った。それから以降、あまりに多くのことが起った。蕭何は動乱に旗上げした沛公のために、後方で休むことなく働いた。幸いにも、沛公は倒れることがなかった。倒れないどころか、ついに咸陽に入ってしまった。今、蕭何は奇妙にも一度夢と消えたはずの咸陽に、入ることとなった。しかも、秦の高官たちを全て自分の指揮下に置いていた。
(何という、巡り合わせだろうか?何という巨大な、変化なのだろうか― 夢でないとすれば、喜んでいるわけにはいかない。恐ろしく昇ってしまったからには、恐ろしい転落を憂えずにはおられない。)
彼は、沛公を見た。
このような時に前に進むことができる男は、常には得られない。
蕭何はいかに稀代の能吏であっても、いまの荒れ狂う風雲の時代を前に進む力が、自分にあるとは思えなかった。ましてや、他の官吏や武将ではなおさらであろう。途方に暮れて、狂うばかりであろう。現に、これまでの動乱の過程で、数限りない大小の諸侯たちが道を見失って亡んで来たではないか。
(今は、、、この男に、道を任せるより他はない。)
蕭何は、思った。
沛公は、父老たちに再び顔を向けた。
それから、切り出した。
「この我が関中に入ったのは、関中の王となるためだ。楚王は、諸侯に対して約した― 一番先に関中に入って定めた者をその地の王とする、と。ゆえに、我はこれより関中を定めるために、父老たちを安心させることにしたい。」
彼は、ここではっきりと自分が関中の王となることを、宣言した。
沛公は、それから言った。
「― まず、全ての人民と官吏は、家に戻ることができる。我が軍は、侵すために来たのではない。恐れる必要は、ない。」
沛公は、続けた。
「― 次に、糧食の徴発は、必要ない。我が軍は、すでに食が足りている。無理に郷里を費やすことは、ない。」
沛公は、命と食に手を付けないことを、約束した。これこそが、郷里の人民が最も心配していたことであった。当たり前のことであったが、戦の中では誰もが簡単に忘れてしまう。人民の生活を掘り崩してでも戦ができると、上に立つ者は思い込むのだ。政治とは、何という忌まわしい分業であろうか。中国のみならず、古今東西のどこの国においても、人民の生活を忘れて勝手気ままに戦と政治を続ける為政者は、後を断たないのだ。
沛公は、さすがに人民のことをよく知っていた。命と食が政治から守られれば、人民は最も安心する。安心さえ与えれば、人民は盾突くこともせずに素直に動くのであった。沛公は、上の者が踏み込んではならない一線を、固く守った。
父老たちは、黙って聞いていた。
沛公は、彼らに向けてさらに言葉を継いだ。
「それから、我がこれより敷く政道であるが―」

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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