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四 将の器に非ず(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

この頃、張良子房は韓王国再興のために奔走していた。

彼は、もと王族の成(せい)という人物を連れ出して、王に据えた。そして、自らは申徒(しんと)の職に就いた。王を戴くものの、実質的に王国を動かすのは張良であった。楚王国における項梁の立場と、同じであった。
「韓の地を平定すれば、その向こうには函谷関と武関がある。秦を追い詰めることが、できるのだよ。」
張良は、放浪時代以来ずっと付き従っている、陳麗花に言った。
「公子、私なんかに講釈するのは、おかしいですよ、、、」
麗花は、苦笑した。
彼女は、それでも主君がようやく活躍の場を得ることができたのが、嬉しかった。長い長い、潜伏の日月であった。彼女は、主君がいま晴れやかに働いている姿が、何よりも自分にとって貴重なものに思えた。天下が鳴動している乱世の真っ只中であったが、彼女は韓王国がどのようになるかを案ずるよりも、主君がその実力を見せられるようになったこの時代をついつい喜んでしまって、内心反省するのであった。
王国は再興したものの、韓の故地のほとんどはいまだに秦の手にあった。
「秦軍は、項梁を破ってさらに趙に進んだ。章邯は恐るべき将であるが、しかし章邯は二人いない―」
張良は、韓の群臣が居並んだ朝廷で、発言した。
「楚から韓に続く回廊を取れば、背後から関中に侵入する道が開く。章邯が趙で戦っている今は、絶好の機会だ。この方面の秦軍を破り、秦を追い詰めるべし!」
張良は、攻撃の号令を発した。
(― こちらを守っている秦将は、楊熊であるか。章邯に較べれば、何ほどの才がある将でもない。破ることが、できる。)
張良は、自ら指揮して河南の秦軍を攻めた。
たちまちのうちに、数城が陥ちた。
すでに三川郡守の李由は斬られ、秦の権威は揺らぎ始めていた。再興した故国の軍が進撃して来たという風評を、流すだけで効果があった。張良は、あえて力攻めなどはしなかった。揺らいだ人心を、さらに揺さぶること。これが最大の成果を出すことを、彼は知っていた。
一定の勝利を得た後に、張良は諸将を集めて、言った。
「韓は、守るに難しい土地である。戦で得た土地を押さえることに、こだわってはならない。他国と合従して、秦を追い詰める一点に、努力するべきである。現在秦は、趙攻撃のために敖倉ほかの食糧庫から河水(黄河)を使って兵糧を送っている。私は、自ら率いてこの方面に兵を進めることにしたい。」
将軍の一人が、発言した。
「申徒。しかし、秦軍は必ず厳重な防備をしていると、推察いたしますが、、、」
張良は、にこと笑って答えた。
「そこに、兵が進む。敵は、ござんなれと防備をさらに強める。それによって、背後の防備はおろそかになる。真の狙いは、敵の背後だ。私は、武関を狙っている。武関は、函谷関よりも取ることが易い。我らは、この方面に道を空けるのだ!」
それから張良は、攻撃の計画を諸将に告げた。彼の構想は、大胆にしてかつ緻密なものであった。
「鄭将軍は、私が北で兵を操っている隙に、突如として宛を攻めよ。その手順は、こうだ。」
彼は、将軍の一人に綿密に訓示した。
「それから申将軍は、敵の侵入に備えて、韓王を守れ。しかし、無理に土地を死守してはならない。あくまでも、秦を亡ぼすという大きな目的のために、韓があることを忘れるな。」
彼は、守備の将軍にも詳しく説明した。
将軍たちは、張良の言葉を素直に聞いていた。彼らは、いずれも元の韓王国で兵権を握っていた貴族の、末裔であった。王国が再興したことを聞いて彼らは集まってきたのであるが、張良は彼らの将才に大して期待などしていなかった。それで、最も危険で困難な兵事は、常に自らが行なうことにした。そして、彼の構想から見ればさほどに困難でない仕事を、将軍たちに割り振っていった。
将軍の一人が、張良に言った。
「この通りに行なえば、本当に勝てるのでしょうか―?」
何とも頼りのない、質問であった。
「必ず、勝てる。間違いは、ない。」
張良は、勝利を確信していた。
しかし、将軍たちは、そうではないようであった。
(― 血筋だけの、人間たちだな。しかし、彼らしかいないのだから、働いてもらうしかない。大丈夫だ、計画通りに進めれば、彼らでも勝てる。)
張良は、将軍たちに頼りなさを感じながらも、自分の立てた作戦の完璧さを信じた。
こうして、作戦が始まった。
張良は、兵を率いて河水方面の秦軍に当った。
あえて、多くの兵は連れていかなかった。兵の大部分は、他の将軍たちに渡すことにした。
(― よく指揮ができれば、偽兵の數は少数で十分だ。注意を引き付けさえすれば、よい。)
彼は、予想通り厳重な守備をしている秦軍を、惑わす用兵を始めた。
間諜を用いて、偽情報を流す。
地形を利用して、敵に兵の数を誤らせる。
迅速に兵を移動させて、敵に予測を難しくさせる。
全て、兵法どおりであった。
兵法の教える通りに、結果を出せるはずであった。
しかし、張良は軍を指揮しているうちに、違う手応えを感じ始めた。
(おかしい、、こんなはずでは、ない。)
その違和感は、何とははっきりと言うことができないものであった。確かに、兵卒や中堅の軍吏たちは、彼の言うとおりに動いていた。しかし、何かが足りなかった。兵は戦っているのに、そこから「強さ」というものが、どうしても感じられなかった。
そのうち、時々敗北する局面が、出始めた。
六分どおり勝てるはずの戦闘にも、勝つことができなかった。戦闘で予想外の展開が少しでも起こると、兵が大きく崩れた。兵の弱さのために、ついに張良は大きな作戦ができなくなってしまった。
「どうしてだ。軍吏はなぜ、動かない。兵卒はどうして、戦わないのか、、、」
張良が困惑しているところに、最悪の情報が入って来た。
後背の地に、秦軍が侵入した。
守備の軍は、持ちこたえることもせずに、崩れ去った。
その上、その報せに恐慌を起こして、宛攻略の軍までが遁走してしまった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章