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三 盗賊道中(3)

(カテゴリ:楚滅秦の章

沛公は、今回の遠征に際しても、妻子を呂家の者と共に沛に残すことにした。

彼の父の劉太公もまた、今は沛に留まっていた。妻の呂雉を残したのは、父の世話をさせるためでもあった。彼の兄たちは、実家を守らせるためには頼りにならなかった。
沛公は、出発の前に子供たちにも久しぶりに会った。
姉は、比較的彼になついていた。彼が結婚してすぐに生まれた、娘であった。
弟は、沛公の嫡男であった。この子は、もうすぐ三歳になろうとしていた。しかし、彼が生まれてすぐに沛公は失踪し、戻って来てからも戦の連続で息子を見る機会がほとんどなかった。それで、父を見ても少しもなつくことがなかった。
「― どうやらこいつ、俺のことが嫌いなようだな。」
息子は、父が抱こうとするとあわてて逃げて、母の懐に飛び込んでいった。沛公は、そんな息子に、機嫌を悪くした。
呂雉は、ぐずる息子を抱きながら、夫の表情を見た。夫は、すっかり興ざめした面持ちであった。妻は、夫から目をそむけて、息子を腕の中でなだめた。
出発の、日となった。
沛の県庁で官吏たちに会っていた夏候嬰のところに、呂雉がやってきた。
「― 夏候嬰。少し、話があります。」
夏候嬰は、やむなく席を外して彼女のところに行った。
県庁の誰もいない一室で、呂雉は夏候嬰に訴えた。
「夫は、わが息子のことを快く思っていないようです。あなたは、夫と常に行動を共にしている股肱の臣。他の子に心変わりしないように、どうか諌めてくださいませ。」
呂雉は、深々と頭を下げた。
「后(おく)さま、そのように頭を下げられては、、、」
夏候嬰は、戸惑った。
呂雉は、それから顔を上げた。
目には、涙があふれていた。彼女はふるえながら、涙をはらはらと落とした。
しかし、彼女の目は弱い女の哀願ではなかった。夫の家臣に、実行を迫る目であった。
夏候嬰は、言葉に窮した。彼は、沛公が失踪した後に呂家で集会が持たれた日のことを、思い出した。恐るべき女傑の本性を顕わにした彼女のもとで、男たちは劉家に忠誠を誓わされた。その後、夫が戻って来てからは彼女は忠実な妻に戻ったかのようであった。しかし、彼女の女傑の性が相変わらずであったことを、夏候嬰は知った。
呂雉は、自分の容姿が夫を惹き付けるのに足りなくなっているのに、気付いていた。かつての彼女ならば、寝所で念を押せば夫はものぐさながらも、必ず息子を忘れないことを確約してくれたであろう。そんなとき彼女は、自分が間違いなく夫の心に食い込んでいることを、確信することができた。しかし、今はもうそうではなかった。今回の帰還で久しぶりに寝所を共にしたとき、彼女は彼の皮膚への自分の食い込み方がずいぶん薄くなっていることに、気が付いた。女としては、もはや他の妾たちと変わらない地位に落ちてしまったかのようであった。夫は相変わらず昼の顔では妻に信頼を寄せていたが、夜になると昼よりも心に触れなくなってしまったことに、彼女は危なさを感じた。
(劉邦の妻は、この私。劉家の太太(おくさま)は、私だけ。ぜったい、譲らない―)
呂雉は、自分の地位を決して手放したくはなかった。彼女は、やはり沛公には過ぎた女であった。
夏候嬰は、彼女の涙に気圧されて、もはやうろたえるばかりであった。
「― 必ず、ご期待を裏切ることはいたしませんゆえ。どうか、どうか、、、」
そう言って、頭を下げた。

こうして、沛公たちは沛を後にしていった。これから後は、長い戦の道中であった。
後にその経過を書くが、これから後の沛公の経路は、北の城陽で秦軍と戦い、昌邑を攻めたが抜けず、栗(りつ)に引き返し、改めて昌邑を攻めたがやはり陥とせなかった。ここからようやく西の陳留に向い、思わぬ僥倖によってこの要衝を陥とした。沛公が関中に向けて進撃していくのはそれから後であって、しかも彼の動きは北の趙戦線と連動している。
明らかに沛公軍の本来の役目は、卿子冠軍の別働隊であった。後背の地固めが、その主要な役割であったに違いない。劉邦が初めから秦を亡ぼすために関中を目指していったなどという主張は、司馬遷の情報操作に篭絡された見方でしかない。司馬遷は高祖本紀で沛公の行動を常に西進していたと、偽っている。実は、その経路を見ると西進を始めたのは北の戦線が熟してから後のことなのであった。
『史記』高祖本紀には、このような奇妙な挿話が記録されている。

項羽が沛公と共に関中を目指そうと願ったとき、懐王の諸老将たちが揃って言った。 「項羽の人となりたるや、剽悍にて狡猾残忍であります。かつて襄城を攻めましたが、襄城は生き残るものとてなく、全て坑(あな)にして殺されました。彼は各地を通って、亡ぼし尽くさなかったところはありません。その上これまで楚は進撃して取ったものが多かったのですが、陳勝・項梁は皆敗れてしまいました。ここは改めて長者を遣わし、義を養って西に進み、秦の父兄に告諭させるに如くはありません。秦の父兄は、その君主によって久しく苦しんでいます。今まことに長者を得て行かせ、侵略暴虐を行なわなければ、降伏させることができるでしょう。項羽は、剽悍です。派遣しては、なりません。ただ一人沛公だけが、もとより長者の人物です。彼を派遣してください。」 こうして、懐王はついに項羽に許さず、沛公を西に向けて派遣した。

この、高祖本紀の諸老将の言とは、一体何なのであろうか。
確かに、項羽の戦法は襄城を屠ったような残虐な面があった。しかし、この当時の沛公に長者であるという評判があったなどとは、にわかに信じ難い。この『史記』の文章は、歴史の経過と共にこれから積み上がっていった劉邦の評判― かなりの面が、宣伝なのであるが― を、当時にさかのぼって当てはめたような操作の匂いが感じられてならない。
項羽は、宋義と共に瀕死の趙救援に向かった。その秦軍とは、章邯の率いる主力である。それと対峙するために進んだ宋義・項羽の軍こそが、楚軍の最主力であることは間違いない。沛公の軍は、せいぜい背後で秦の侵入を防ぐのが目的の、別働隊にすぎない。この部隊が最初から関中を攻略するために派遣されたなどは、結果と原因とをすりかえた議論である。項羽は暴虐だから西に派遣せず、沛公は長者だから西に派遣したなどというのは、作戦の本質を意図的に歪曲して評価した言葉ではないか。
おそらく、この言は後世に誰かが筋書きを書いて、挿入したものではないだろうか。
後世に、当時の事情を知る者がいなくなってから、最初から劉邦は有徳ゆえに秦に代わって民を懐かせる運命にあったと(そして、暴虐な項羽は秦に取って代わる資格がなかったと)筋書きを立てた者が、歴史書に記述を紛れ込ませたのではないだろうか。当時の状況から考えて、高祖本紀のこの言葉は、漢正統観に都合が良すぎてかえって不自然に見える。
ひょっとしたら、彼の軍師となる張良子房が、全てが終わった後に書いたのかもしれない。あるいは、後に劉邦に大きな智恵を貸すことになる、陳平の仕業かもしれない。いずれにしても、高祖本紀の記述には漢正統観による潤色が見られる点は、注意して読まなければならないのではなかろうか。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
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第十章 垓下の章



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