«« ”三 盗賊道中(1)” | メインページ | ”三 盗賊道中(3) ”»»


三 盗賊道中(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

沛公が沛に戻ったのは、妻の実家の呂家に行くためであった。

呂家では、彼の股肱の樊噲と、呂家の末女の須(しゅ)とが、婚礼を挙げた。
今は亡き家長の呂公がかつて沛公と始めて会見したのは、県令の宴席のことであった。沛公はそのとき側に樊噲を従えて宴席に乱入し、呂公の心を奪った。そうして沛公は彼の長女の
呂雉を妻となし、呂家と姻戚となったのであった。
彼の妻の呂雉が、生前の父の言葉を夫に伝えていた。
「父は、あなたと初めて会ったときに同席していた樊噲どのにも、いたく感銘を受けておりました。これほどの勇士は、求めて得られるものではない。何よりも、彼には剛毅朴訥の徳がある、と。それで、妹の須が長じたらぜひとも娶わせたいと申しておりました。残念ながら妹が成長する前に、父は世を去りました。ですが、もし樊噲どのが応じていただけるならば、私は父の遺志をかなえてやりたいと思うのです。」
沛公は、それはよいと思った。それで、樊噲を呼んで、お前も妻を持たないかと誘った。
樊噲は、言った。
「― それがしには、家族がありません。呂家と婚姻を結ぶわけには、参りません。」
百人力の巨体の男であったが、その性はいたって質朴であった。我欲はなく、ただ沛公に忠実に付き従っていた。戦場では沛公軍で最も武勇を示す男であったが、いったん戦場を離れれば意外にも丁重で、他人に対して礼を失することもない。そんな彼は、まさに沛公には過ぎたるほどの股肱であった。
沛公は、言った。
「家族?― お前は、俺の家族の一員のようなものだ。お前が呂家の娘と結婚すれば、俺とお前は妻の実家を通じても繋がる。お前は、俺の軍で一番の男だ。俺が、お前の媒酌人(なこうど)となってやろう。」
こうして、樊噲は呂家の末女を娶ることに決まった。
だが、沛公が旗上げして以来の日々は、戦に次ぐ戦であった。樊噲は、沛公軍にとってなくてはならない武将であった。彼は、沛に戻る暇もなく次の戦場に駆け出していった。それで、婚礼の儀は何度も先延ばしにされた。
しかし、今や楚軍は総力を挙げて秦との決戦に臨もうとしていた。沛公軍もまた、これから長い戦を戦わなければならないことは、確実であった。それで、沛公は出陣の前に樊噲たちに婚礼の儀を行なわせることにした。彼は、樊噲を沛に戻していた。
沛公が呂家に行ったのは、婚礼の儀に立ち会うためであった。本来ならば樊噲の戦友たちが揃って、呂家に嫁を迎える親迎に参加するべきであった。しかし、今は戦の真っ最中である。彼は、諸将に沛に戻ることを禁じた。そうして、媒酌人として彼だけが立会いに行ったのであった。付き従ったのは、馬車を操る夏候嬰だけであった。
戦時の婚礼の儀は、しめやかなものであった。
沛公の婚礼のときの盛大な祝祭とは較べようもない、つつましやかな儀式であった。飲食すら、今は兵卒に食わせるために余分な出費は許されなかった。秦からの税はなくなったが、代わりに沛公軍を支えるための供出が増えた。住民は皆、生活が苦しかった。それでも住民は、黙って彼らに付き従っていた。もし楚が敗れて秦軍が進軍してきたならば、全ては息絶えるであろう。すでに秦軍が蹂躙した土地には、死が広がっている。沛公軍を支えるのは、自衛のためにやむないことであった。
「― 城市の民も、あまり集まってこないな。」
婚礼の儀に参加した沛公は、呂家の長兄に言った。
「申し訳ない。それがしの、徳の至らなさです。」
長兄の呂澤は、言った。
「今は、戦時です。致し方ございません。妹も樊噲も、分かってくれるでしょう。」
呂雉が、長兄に言った。
今、沛を治めているのは、じつに彼女であった。長兄や次兄の呂釋之は、妹に操られて動いているようなものであった。
沛公は、何月ぶりかに会った妻に、言った。
「さすがに、お前は賢明だな。お前が沛にいるから、俺も安心して戦場に出ることができる。」
妻もまた、沛公にとって過ぎたる女であった。彼女には、一県を仕切るぐらいの手腕が優にあった。もしかしたら、一郡でも支配できるかもしれない。そんな女を妻として持っている沛公は、これまでずいぶん得をしていた。
彼は、妻に言った。
「この婚礼が終わったら、また俺は戦に行かなければならない。今度は、いつ戻って来るかわからん。だけど、俺はお前のことを決して忘れることがないぞ。」
沛公の、妻に対して送るいつもの言葉であった。
お前が、一番大事だ。
沛公は、妻に一筋な男などでは、全くない。現に子を産ませた妾がいるし、戦場でも女を放したことがない。沛公はしかし、気にも留めていなかった。正妻は正妻で、彼は今でも本気で一番大事と思っているつもりであった。彼の妻への言葉は、真剣であった― あくまでも、彼がそう思っていたことであったが。
呂雉は、夫に答えた。
「戻って来るときには、あの子たちをもっと盛大に祝う席を設けましょう。そのためには、勝たなければなりません。敗れることは、許しませんよ。他のことは許しても、負けて戻って来ることは、許しません。」
沛公は、妻に気圧された。それから言外の意味を勘付いて、苦笑した。
呂雉は、夫が分かっていた。夫の浮気を許してはいなかったが、夫には女がいることなど些細に見えてしまうだけの実力があることが、分かっていた。彼女もまた、並の女性を超えた力を持つ女であった。だから、自分を認めて大事に思ってくれている以上は、彼女は夫に力を貸すことを認めた。いつか、夫が彼女を裏切ったときには、どうなるかわからない。しかし、今は夫に従うことを、呂雉は捨ててはいなかった。
呂家の宗廟の前で、新郎と新婦が並んで祖先に報告した。
新婦は、可憐な花であった。姉よりもぐっと若い、たおやかな娘であった。
新郎は、岩山のようであった。浅黒い肌に、風雨で削り取られたような鋭い筋骨が聳えていた。
「岩山の上に、花が咲いたようであるな。こりゃ、絶景だ。」
沛公は、笑って隣の夏候嬰に言った。
武将で唯一出席していた夏候嬰は、沛公に答えた。
「樊噲は、偉い奴だ。妻を戦場に連れて行くのを、断った。」
沛公は、言った。
「妻を連れては、戦などできん。勇士だからな。」
夏候嬰は、にやりとして言った。
「公も、妻を残して行かれる、、、勇士ですなあ。」
夏候嬰は、小さくきしししと笑った。
沛公は、笑う夏候嬰の頭を、黙れ!と一叩きした。
戦場に向かう勇士と娘との婚礼は、こうして過ぎていった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章