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三 盗賊道中(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

かくして、楚の総力を挙げた卿子冠軍が、北へ向けて進発することとなった。

だが、その中に名前のない、重要な武将が一人いた。
沛公劉邦の名前が、軍の中に見えなかった。
懐王以下の楚の首脳たちが、卿子冠軍の編成について会議した席のことであった。
末将の范増が、進言した。
「― 中原に一隊を置いて、後方の守護としておかねばなりません。」
何しろ楚のほとんどの部隊を、北に派遣するのである。脇腹から万一彭城を攻められたら、楚王が危なくなるのみならず、補給の道も断たれることになりかねない。どうしても、有力な一隊を後方に残しておかなければならない。
范増は、意見を述べた。
「その将には、沛公が最も適当かと思われます。」
以前から、彼が考えていたことであった。
(秦の主力と戦うわけではない周辺地域での戦は、むしろ調略や誘降を活用したほうがよい。沛公には、それができる。彼は強力な部隊を持ちながら、行動は極めて慎重だ。何しろ、得体の知れない一旗組などが至るところに伏在している。今はこいつらを叩かず、だましながら秦に味方などさせなければよいのだ。彼を残しておくのに、如くはない。)
その席には、沛公本人もいた。
彼は、決して秦軍と戦うことを厭うような男ではなかった。
しかし、武勇を誇って後衛となる不名誉を怒るような心情も、持ち合わせていなかった。
沛公は、范増の提案を聞いて、特に表情を変えることもなく言った。
「― いいでしょう。確かに後衛は、必要だ。」
彼は、あっさりと承諾した。
結果、沛公は卿子冠軍の後衛として、敵の後方への侵入を防ぐ役割となった。
まさか、この冴えない役目を割り振られたことが、以後に彼が巨大な成果を盗み取る結果をもたらすとは、この時の沛公も思っていなかったであろう。進言した范増もまた、予想していなかった。

命を受けた沛公は、夏候嬰と共に現在本拠地としている碭(とう)に戻って来た。
曹参、周勃、廬綰、灌嬰、任敖、周昌、周苛。
旗上げ以来の男たちが、彼を出迎えた。
灌嬰が、沛公に言った。
「― いい話を、持って帰って来ましたかい?」
沛公は、言った。
「いい話だ。武安候なんて爵をもらった。ついでに、碭郡の郡守にも任命された。」
周苛が、言った。
「碭郡なんて、まだ大半は敵の手の内じゃありませんか。何の実も、ありはしない。」
沛公が、笑って答えた。
「攻めて取れ、と解釈したほうがいいかな。」
曹参が、言った。
「― つまり、勝手に動け、と、、、趙攻めには、不参加。」
沛公が、言った。
「勘がいいな。さすが、曹参だ。」
沛公はそれから、彭城で受けた命令について、各人に告げた。
夏候嬰が、言った。
「俺は公から今回の命を聞いたとき、言ったんだよ。どうして、俺たちは後衛に回されるのかって。范増は、俺たちに活躍させたくないつもりで、そんなことを言ったんじゃないのかってな、、、」
夏候嬰は、不満そうであった。彼は、今やすっかり戦場の男となっていた。
沛公が、彼に言った。
「だが、いいことがあるぞ。俺の軍は、卿子冠軍の指揮下から外れる。宋義なんかの命令を、いちいち受けないですむわけだ。あんな奴の下で、働かされてたまるか。」
沛公は、宋義という人物の底をすでに読み切っていた。
沛公は、それから新たに任命された郡守として、配下の者たちを昇進させていった。
曹参は、執帛(しっぱく)に授爵されて、建成君と号された。
夏候嬰は、執珪(しっけい)に授爵された。
任敖は、御史に上げられた。
「任敖、お前はこれから豊を守れ。あそこがまた陥とされては、たまらん。お前ならば、信用できる。」
任敖は、沛公の期待に応えるべく、うなずいた。
周勃は、虎賁県の県令に任じられた。
「県令で、ございますか!、、、それがしが、県令ですか!」
周勃が、念を押すようにおずおずと答えた。
沛公は、答えた。
「お前は、そのぐらいの働きをしてるだろうが。今は、乱世だ。簫(ふえ)吹きでも、県令になれる。俺に付いてくれば、もっと出世させるぞ。」
周勃は、県令の職を拝領して、直立不動でかしこまった。
「け、県令として、命を賭けて、働くーで、ございーます!」
そう言ってから、腰が折れるほど深く会釈した。
沛公は、大笑いした。
「ぶはははは、阿呆か、お前は!」
最近、彼は地位が上がるにつれて、昔と較べてずいぶん大真面目になった。以前のように軽口を叩くこともなくなり、どんどん増えていく配下に面する際には、口を閉めて無理矢理威厳を保とうと必死であった。それが、沛公にはかえって滑稽でたまらなかった。
ひととおりの任命が終わった後、丞の蕭何が沛公のもとにやって来た。
蕭何は、沛公に言った。
「碭までの線は、完全に掌握しています。遠征して利がなければ、碭に戻ってくれば補給することができます。無駄に、戦地で掠奪する必要はありません。」
沛公は、言った。
「お前は、本当に手堅い仕事をできる奴だな。お前がいなけりゃ、沛公軍は動けない。」
この民政家の実力を正しく評価しているのは、軍中の諸将の中でも誰あらん沛公だけであった。彼の軍には、勇猛な手駒は大勢いた。しかし、肝心の補給が絶えては、兵は何もできなくなる。今のような長期の戦いには、蕭何の手腕がぜひとも必要であった。沛公の軍の強さは、彼をよく働かせることによって生まれていた。
沛公は、蕭何に言った。
「まず、北に向けて兵を進める。用意を整えておけ。」
蕭何は、答えた。
「承知いたしました。出発は、いつから?」
沛公は、言った。
「数日中には、ここを出る。ただし、途中の行軍は曹参に指揮を取らせる。俺は、ちょっと寄り道だ。」
蕭何は、彼の寄り道先がすぐに分かった。
「― 沛へ?」
沛公は、答えた。
「そうだ。呂家の連中に、会わなければならん。樊噲も、連れ戻してこなけりゃならんしな。」

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章