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ニ 鴻鵠の歌(3)

(カテゴリ:楚滅秦の章

乾いた雪が、静かに舞っていた。

陣中の土が、次第に白く色づいた。天が、虞美人の舞に舞台を作った。
虞美人は、雪の中で静かに舞い始めた。
やがて、静寂の中から、声が響き始めた。

鴻鵠高飛 鴻鵠(おおとり)が飛んだ

一舉千里 千里も翔けた

羽翮已就 翼を生やし

横絶四海 四海を渡る!

古い、楚の歌であった。
音曲もない、声だけの舞であった。静寂が、舞曲の背景であった。
雪に舞う虞美人の肌は、透き通るようであった。
まるで、衣すら透けて見えるような錯覚に襲われた。
項羽も、呂馬童も、韓信も、江東の子弟たちも、全ての若者たちが、形容することのできない美に凍りついた。
(雪さえ、呼ぶことができる、、、こんな女は、、、)
韓信は、またも見せられた彼女の美に、言葉も続かなかった。
虞美人の歌は、続いた。
横絶四海 四海をわたる、、

當可奈何 もう、止められない

雖有矰繳 ここに、矰(いぐるみ)があるけれど

尚安所施 もう、届くこともない!

飛び去っていく鴻鵠を、もう捕まえることができない嘆きの歌であった。矰(いぐるみ)とは、糸を付けた短矢のことである。これを弓で射て、たとえば木に留まっていたりする鳥を撃つのである。そうして糸を引き寄せて、鳥を捕える。それは、地上の人間が作った、賢しらな道具であった。だが千里を翔けて四海を渡る鴻鵠には、人間の矢など届くことはない。鴻鵠は、人間の小賢しい知恵などを越えて、どこまでも空高く飛翔していくのである。
この舞を舞った虞美人の真意は、どこにあったのであろうか?
輝ける男、項羽の旅立ちを祝ったのであろうか?
それとも、男がこれから遠くに旅立って、勝っても負けてももう戻ってこないだろうことを予感して、悲しんだのであろうか?
それは、わからない。
鴻鵠(こうこく)、高ク飛ビテ
一舉シテ、千里ス
羽翮(うかく)ヲ、已ニ就ケ
四海ヲ、横絶ス
四海ヲ、横絶スルハ
奈何(いかん)シテ、當タル可シ
矰繳(そうしゃく)、有ルト雖(いえど)モ
尚ホ、安(いず)クンゾ施ス所アリヤ

雪が、激しくなってきた。
両の手の、白羽扇が流れた。
虞美人は、連を繰り返しながら、次第に舞いを急にしていった。
手足の流れは、旋回となった。
一しずくの水滴が流れ落ちて、項羽の頬に撥ねた。
吹雪く雪の、一片であったか。
それとも虞美人の、涙であったか。
もはや、定かではなかった。
鴻鵠高飛 鴻鵠(おおとり)が飛んだ
一舉千里 千里も翔けた
羽翮已就 翼を生やし
横絶四海 四海を渡る!
横絶四海 四海をわたる、、
當可奈何 もう、止められない
雖有矰繳 ここに、矰(いぐるみ)があるけれど
尚安所施 もう、届くこともない!

舞は、終わった。
見守った男たちは、その感動に動くことすらできなかった。
ただ、項羽だけが立ち上がった。
「― すばらしい!」
項羽は、女の完璧な美に、頬を紅潮させていた。
彼は、言った。
「虞美人!、、、お前ほどの、女はいない。そして、私ほどの、男もいない。お前の送別の舞、しかと受け取った。私は、行こう。鴻鵠となって、千里を行こう。遠く離れても、お前と私は天下に二人、光り輝く。進もう。進もうではないか、、、諸君、行くぞ!この私に、遅れを取るな!私を、止めることはできないぞ!」
項羽は、高らかに叫んだ。
江東の子弟たちが、一斉に歓呼した。
「― 何という、男!何という、女!、、、この二人、もう止まらないぞ!」
呂馬童が、飛び上がった。
亜父范増が、騒ぎを聞いて駆け付けて来た。
「これはまた、何という騒ぎだ?何が、起こったのだ?」
范増は、項羽が配下の者を相手に暴れていると聞いて、亜父として憂い項軍に戻って来た。ところが、戻って来たらそこで見たものは意外にも兵たちの歓声であった。暴れ者の次将は、兵たちの万歳を受けている真っ最中であった。
范増に対して、韓信が答えた。
「次将が、兵の心をまたも掴みましたよ。項軍は、さらに強くなりました。」
韓信は、苦笑いした。
范増は、まだ怪訝な顔をしながら、若い次将が美しい女と並んで明るい顔をほころばせているのを、眺めていた。いつしか雪は止んで、早くも雲の間から再び陽の光が差し始めていた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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