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ニ 鴻鵠の歌(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

呂馬童は、殴り飛ばされた項羽に対して、罵倒の声を張り上げた。

「一城を阬(あな)にする非情をあえて成したお前が、今最強の敵を前にして、女の情などに溺れる。我慢がならぬ。お前を信じて付いてきている、江東の子弟たちに何と顔向けするのか。将が女を気にして、配下が将のために死ねるかっ!」
彼は、直情であった。江東の男たちも、素朴であった。彼らは、将に無限の完全さを望んでいた。呂馬童は、項羽に弱さというものがあってはならないと思った。完全でなければ、江東の男たちは死ねない。呂馬童は、後ろにいる年若たちの項羽への心を代表して、彭城の愛人にうつつを抜かす最近の将に、鉄拳をもって諌めたのであった。
殴られて、項羽の闘争本能が目覚めた。
「― この私に、指図をするな!」
項羽は立ち上がって、返しの一撃を呂馬童に浴びせた。
呂馬童の拳をさらに上回る、殺人的な力であった。呂馬童は、一丈どころか背後に構えた陣営の天幕にまで、突っ込んでいった。陣営の柱が折れて、ばらばらっ!と音を立てて崩れた。
それでも、立ち上がった。普通の男ならば、すでに死んでいるところであった。頑強な、男であった。
「― 言ってわからぬゆえに、拳で分からせてやるのよ!」
呂馬童が、またも項羽に殴りかかっていった。
陣中で、二人の殴り合いが始まった。
項軍は、大騒ぎとなった。

「出陣前に、奴らは何をしているのだ、、、いい加減に、しないか!」
項荘から騒ぎの勃発を聞かされた項伯は、甥のところに駆け付けた。
陣中は、もはや無茶苦茶であった。
あまりの激しい闘いに、他の者たちは遠巻きにして見ているだけであった。もしうっかり仲裁などに割り込んだりしたら、二人から一撃を食らうかもしれない。そうなれば、確実に死ぬ。誰も、動くことができなかった。
「籍っ、、、お前は、将だろうが。軽挙は、やめい。やめるんだ、、、!」
項伯は、甥を抑えるために、声を掛けようとした。
しかし、彼もまた近寄ることができなかった。
呂馬童の拳が、うなりを上げて項羽に打ち込まれた。
項羽は、間一髪で避けたが、その体の動きが余って後方に巨体が跳ね飛んだ。
陣営の一角が、またも崩れた。
そのすぐ隣にいた項伯は、あわてて逃げる以外に何もできなかった。この血気に余る甥は、君子然とした彼の手の内に収められるような武将ではなかった。
項羽は、立ち上がってすぐさま呂馬童と取っ組み合った。
「― 目を覚ませ!」
「― 覚めているわ!」
「― お前が生きる場所は、戦場だけだ!女の懐の味など、忘れろ!」
「― どうして、忘れようか!お前には、分からん!」
両者は、罵り合いながら転げ回った。
闘いは、いつまで続くのかも知れなかった。
「亜父どのを、呼んで来い!」
項伯が、項荘に言った。
項荘が、言った。
「亜父どのでも、おそらく表兄(あにうえ)を抑えるのは無理ではないでしょうか、、、」
「では、どうすればよいのか、、、!」
項伯は、困り果ててしまった。
そのとき。
「― やめなさい、項羽!」
陣中に進んで来た、女の声が響いた。
男の世界である陣営に、女の声が響くことは本来ありえなかった。全ての者が、その高らかな声に注目した。
「お前が戦う相手は、そんなところにいないだろうが。あなたは本当に、愚か者なのね。」
そこに、虞美人がいた。
いま彼女は、かつて彭城の県庁で舞ったときと同じ服装でやって来た。鮮やかにして不思議なる錦繍の上衣を打ち掛け、芙蓉を縫い出した純白の裳(もすそ)を従えていた。白玉の笄(かんざし)、艶やかに巻き上げた髪、薄らかな顔(かんばせ)の紅。およそ、陣中には不釣合いな美の姿であった。
だが、以前の舞の時とは一点だけ装束が異なっていた。
以前の時には、彼女は造花の秋蘭を腰に巻き付けていた。だが今はそこに、純白の大きな羽毛をまとめて作った、白羽扇が二本挿されていた。それは、鴻鵠(こうこく。おおとり。オオハクチョウ)の羽を合わせて作った、優美な扇であった。
項羽は彼女の姿を見て、雷鳴に打たれたように動きが止まった。
「虞美人―!」
まさしく、むかし彼女と初めて会った日の姿の、再現であった。項羽は、あの日のことを一挙に思い出した。二人の全てが、あの日から始まったのであった。
彼女の横には、郎中の韓信がいた。
虞美人を連れて来たのは、韓信であった。項羽を鎮めることができるのは彼女だけだと思って、彼は彭城に行った。虞美人は、韓信から事情を聞いて、項羽に対して自分がなすべきことがあると思った。彼女は直ちにこの装束を用意して、項羽のもとにやって来たのであった。
虞美人は、項羽に言った。
「私は、この彭城に残ります。」
彼女は、決然と男に告げた。
「虞美人!」
項羽は、彼女に叫んだ。
虞美人は、しかし男に言った。
「あなたは、行かなくてはなりません。天下をも包み込もうとする男として、旅立つときなのです。今は、己の力を信じて、ひたすら前に進みなさい。それが、私とあなたの二人を裏切らない、唯一の道です。私は、あなたと共に戦の場に参るわけには、いきません。」
このとき、空は灰色に曇り、少しずつ雪がちらつき始めた。初雪であった。
虞美人は、揺れる雪片の向こうから、項羽に言った。
「行きなさい、項羽。行って、秦を倒し天下を取るのです。私は、旅立つあなたを送ることにしましょう―」
虞美人の、送別の舞が始まろうとしていた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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