今、彭城に再び戻った項羽が、自らの時を過す場所は一つしかなかった。
項羽は、今日もまた虞美人の屋敷に足を運んでいた。
「― 私は、愚者です。」
項羽は、言った。
「― 今ごろ、気付いたの?」
虞美人は、答えた。
彼女は、彭城に戻るや否やこれまで以上に足繁く通うようになった項羽に、彼の中の弱さを感じていた。項羽は、叔父を失ってとうとう男の世界の中で、一人になってしまった。もはや、一族の中で彼の上に聳(そび)える人間など、いない。彼には、大いなる気概があった。その気概には誰にも付いて行かせず、そして誰も追い付くことができなかった。しかし、だからこそ、彼はこれまで叔父の項梁の重しの下に従うことによって、安心を得ていた。それが、今後はまるで艫綱(ともづな)を失った大船のようになってしまいそうであった。海流に乗ってどこに行ってしまうのか、自分ですらも分からなかった。
項羽は、虞美人に言った。
「私は、沛公劉邦のような大人の度量にあこがれます。なのに、大人の理屈が嫌いでしようがないのです。私は、分裂している。」
虞美人は、言った。
「しようがない、子供だね。あなたは。」
虞美人は、彼の中に戸惑う弱さを感じていたが、今は受け入れていた。情を感じている、男のことであった。このぐらいの弱さは、人間として当たり前だと思うことができた。
虞美人は、以前に二人で即興に作った歌を、繰り返した。
「こんな歌を、前に作ったよね―
力ハ、山ヲ抜キ
気ハ、世ヲ蓋フ
さあ、今ならばこの下の連を、あなたはどう続ける?」
項羽は、しばし考えた。
隣にいる女は、やはり美しかった。彼女だけが、変わらなかった。項羽じしんもまた、自分は変わらないと思っていたが、自分の周囲は完全に変わってしまった。
「― ああ、、、
虞兮虞兮
可奈何?
虞ヤ、虞ヤ、
奈何(いかん)ス可(べ)キナルカ?」
虞美人は、むっとした。
「、、、何だよ、その句は!私に、聞くんじゃないよ!」
「いや、これは冗談です。」
項羽は、少しあわてた。
彼は、彼女の怒りに促されて、もう一度まじめに考えた。
「― こちらの方が、よいか、、、?」
虞兮虞兮
奈若何?
虞ヤ、虞ヤ、
若(なんじ)ヲ奈何(いかん)セン?
「いや、、、やめておこう。」
項羽は、思いついた句を吐露することを押し止めた。
だがそれは、いまの彼の素直な心情であった。項羽は、彼女が欲しかった。離れたく、なかった。彼女さえ側にいれば、後はどうでもいいような気さえ、するのであった。だがそれは、自分と彼女に対する、裏切りであった。
項羽は、虞美人に言った。
「私は、、、行きます。出陣は、近い。配下の者たちが、待っている。」
彭城の西に、項軍の陣営があった。
項梁の死後、項氏の総指揮の立場は項羽が受け継ぐことになった。
もう一人のおじの項伯や、いとこの項荘たちも、彼に従うことを了解していた。
范増は、項梁の遺言によって項羽から亜父とされていた。だが彼は卿子冠軍(上将軍宋義の呼称であり、かつ趙救援軍全体の呼称でもあった)の末将でもあったので、軍全体との調整の役目に忙しくて陣中にいないことが多かった。
現在の項軍は、呉中以来項羽に付き従っている江東の子弟たちが中心であった。
項梁が自ら下士官として選んだ大人たちは、ほとんど全てが定陶の戦で死んでしまった。残されたのは、項羽に付いていた年若の者たちであった。定陶で父や、おじを失った者も大勢いた。そのために、同じく肉親を失った項羽への彼らの共感は、さらに大きなものがあった。
年若の者たちの中に、呂馬童がいた。呉中で馬に乗らせたら一番の男で、今は項羽に惚れ込んで彼に従っていた。
朝、彭城の城内から彼らの将軍が、陣営に戻って来た。
呂馬童は、先頭に立って彼を迎えた。
「お帰りなさいませ、次将。」
項羽は、彼に迎えられて、馬を降りた。
呂馬童は、項羽に言った。
「一両日中には、出陣です。趙の冬は、寒いと聞いております。范末将は、兵に防寒の用意をしておくようにと、申しておりました。直ちに、手配したいと思います。」
項羽は、気のない返事をした。
「ああ、、、そうするがよい。」
呂馬童は、将の心がここに無いことを、見て取った。
彼は、ずばりと項羽に言った。
「― 出陣の際には、大事なお方をお連れになられますか?」
項羽は、彼の言葉を聞いて、目を丸くしてあわてた。
「そっ、、、それは、、、」
悪くないかもしれない、、、
「それは、そうすれば、、、」
彼女がいれば、私は強くなれるかも、、、
配下に言われて、このようなことを一瞬考えてしまった、項羽であった。
呂馬童は、将の表情の変化を見て、やおら大喝した。
「― 混帳(ばかやろう)!陣中に女を連れて、戦ができるかぁ!」
呂馬童は、項羽を拳で思い切り殴り倒した。
項羽は、呂馬童の強烈な拳をまともに食らって、一丈以上も後ろに吹き飛ばされた。
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