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四 将の器に非ず(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

結局、韓は何らの攻勢を行なうこともできず、その上これまでに取った城市まで失ってしまった。

王国の存続すら危うかったが、それを救ったのは秦の政変であった。
丞相の李斯が斬られ、趙高が全ての権力を握って恐怖政治を敷き始めたことは、末端にたちまち悪影響を及ぼした。凡庸な将軍や官吏たちは、前線よりも咸陽を恐れてあれこれと奔走し始めた。この方面を指揮する楊熊将軍もまた、戦どころではなくなった。秦の圧力がにわかに薄まったことによって、韓はわずかに持ちこたえることができた。
張良は、敗戦の後で総括をせざるをえなかった。
事情を調べてみると、韓の地に侵入した秦軍とは、大した勢力ではなかった。
冷静に対処していれば、容易に撃退できるはずであった。
張良は、守備の将軍を詰問した。
「どうして、お前は義務を怠ったのか!― 正統な理由がなければ、斬に処す!」
張良は、激しい怒りを見せたつもりであった。
しかし、彼の譴責を受けた将軍は、まるで畏れていないかの表情であった。
将軍は、ぬけぬけと答えた。
「― 申徒が、無理に土地を死守してはならないと言われたからです。それで、無理に戦わずに引きました。そうしたら、宛を攻める部隊が崩れてしまいました。それがしは、義務を守って一時的に退却しただけです。敗れたのは、韓全体の責任です。それがしの責任では、ありません。」
張良は、怒りあきれた。
「何という弁解だ、お前の言は、、、!」
張良は、続けて宛攻めを担当した将軍にも、責任を問うた。
「鄭将軍。お前は、秦軍が侵入したときに、敵のすぐ近くにいたではないか。どうして、守備の軍に異変が起こったとき、傍観していた?どうして、敵と戦わなかった?」
張良は、将軍のあまりの怠慢が、信じられなかった。
しかし宛攻めの将軍は、返した。
「― それは、申徒から訓示された内容に、ありませんでした。」
張良は、耳を疑った。
「言われなければ、お前たちは何もしないのか!それでも、将軍か!、、、それが、責任ある立場の者の、言葉であるかっ!」
張良は、拳を振り上げた。
(― 斬!)
彼は、非情の軍法を、実行するべきだと思った。賞罰を、明らかに行なうこと。それが、兵法の鉄則であった。
将軍が、低い声で言った。
「― 申徒も、勝てなかったではありませんか、、、」
(― 斬!)
もう一人の将軍が、つぶやいた。
「― 申徒は、太公望の兵法を使われているとか。さぞかし、知識がおありなのでしょう。ならどうして、我らが崩れるところまで予測して、手を打たれなかったのですか?私たち凡庸の者に、そんなに期待しないでくださいよ、、、」
(― 侮られている、侮られている、、、)
張良は、ほとんど逆上しそうになった。
自分を天下の器とすることを自任して、常に冷静な観察者でいることを続けていた彼が、今や自制心を失いかけていた。
このとき彼は、自分が怒り狂っている姿を、想像してみた。
想像、できなかった。
(激情に身を任せるのは、私ではない、、、)
では、あくまでも冷徹にして非情の将と、なるべきであろうか。
彼は、改めて将軍たちを見た。
彼らは、いずれも凡庸な人物であった。
(凡庸な人間であっても勇士に変えてしまうのが、知兵の将というもの―)
彼は、配下の者たちに見られている自分を、想像した。
彼は、聡すぎる男であった。
(そうか、、、)
張良は、振り上げた拳から、ゆっくりと力を抜いていった。そして、もう何も言わなかった。

自邸に戻って来た張良を、麗花が迎えた。
「お帰りなさいませ。公子―」
張良は、彼女に何も声を掛けず、奥に入っていった。
彼は、酒を持ち出して、そして一人で飲み始めた。
最近は体の調子が以前より思わしくなく、刺激的な飲食は控えていた彼であった。彼は外見は若かったが、すでに年は四十の半ばを過ぎていた。もともと虚弱な体質であるところに、若い頃放浪生活でずいぶん無理をした結果が、身中に次第に積み重なっていた。思うようにならなくなり始めた体を、彼は何とか守ろうと心掛けていた。しかし、今日は飲まずにはいられなかった。
麗花が、必要以上に酒を進める主君を案じて、彼のそばにやって来た。
「お体に障ります、公子、、、」
張良は、彼女に言われても、また一杯酒をあおった。
そして、独語した。
「― 私は、将の器ではない。そのことに、こんな年になって気付いてしまった。何と、愚かしい人間だ。」
張良は、それから麗花の方を向いて、言葉を続けた。
「麗花。私もまた、本当は天下をこの手に掴みたかった。私にはそれができるはずだと、心の底でうぬぼれていたようだ。しかし、天下を観察することと、天下を動かすこととは、全然違うことだった。私は、人を信じさせて奮起させる力に、欠けている。整然と将来を語ることができるが、人を将来に向けて突き動かすことが、できない。それは、人の上に立つ資格がないということだ。」
「公子―!」
麗花は、そんなことはない、と言いたかった。現に、彼は彼女を心から動かしているではないか。
だが、張良は言った。
「麗花。たとえば、ここに一本道があったとする。道の途上に、一歩(一・三メートル)の空隙が開いて道を途切れさせていた。もし空隙に落ちれば、底無しの地下に落ちて必ず死ぬ。人は、これを飛び越えることができるだろうか?」
彼は、ひとつの譬え話を語り始めた。
「わずか、一歩の空隙だ。理で考えるならば、誰でも難なく飛び越えられるはずだ。だが、人は落ちれば必ず死ぬことを知ったとき、飛び越えることができなくなる。このとき名将だけが、恐れる配下を突き動かして、飛び越えさせることができる。それをさせるのは、将の指導に対する信であり、非情の罰への恐怖であり、そして困難を乗り越えさせる人物の器というものなのだ。私は、配下に対して理をもって細かく指示をした。全て、理をもってすれば誰でも容易にできるはずのことであった。だが、私の理には信というものが、欠けていた。配下の者たちは、結局私を信じていなかった。だから、私を信じて戦う力を、出さなかった。それは、私の責任だ。一歩の空隙を人に飛び越えさせる力を与えない私は、将の器ではない―」
張良は、そう言ってまた一杯を注いだ。
麗花は、そんな公子を見て思った。
(― 優しすぎるんですね。自分のために生きるのには、公子は、、、)
始皇帝の暗殺に彼が執念を燃やしていた頃、彼は自分というものを捨てていた。自分を捨てることによって、ようやく他人を殺す計画に打ち込んでいた。今、月日が経って公子は一つの国を実質的に自分で動かそうとしている。それは、彼の言うとおり、彼が心の中で望んでいた晴れやかな地位であった。しかし、彼は自分の道を進むようになった途端に、力を出せなくなってしまった。だがそれは、彼の責任ではない。
「私は心中で、泣いている。悔しくて、しようがない。あきらめなくてはならないが、今夜だけは苦しませてくれ。麗花―」
「公子、、、」
彼女は、主君を後ろから抱きしめたい思いに駆られた。しかし、女性にこれ以上自分の弱さを見せることを、彼は望んでいないと思った。彼は、それ以降無言で酒を飲んでいた。彼女は、せめて今夜は明けるまでただ側に居続けようと、思った。
(これまでずっと、私があなた様を見つめてきたように―)

          

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第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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