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五 動かぬ軍(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

韓信は、項羽の配下で郎中という職にあった。郎中とは、宮中の宿直役である。現在は戦時であるので、将の近くにいて諸事を取り扱ったり時に参謀の役目を果たしたりしていた。

最近、彼は江東軍の若い兵卒の一人と、仲が良くなった。
「韓郎中、また話を聞かせてくださいよ―!」
「小楽、、、また来たのか。」
「だって、軍が全然動かないんだもの。暇で、しようがないじゃありませんですか!何もしないよりは、郎中の話を聞いたほうが、ためになります。」
小楽は、そう言って屈託なく笑った。
韓信は、項軍の中で人気がなかった。
今や、項軍の者たちは、将の項羽を仰ぎ見ていた。彼を崇拝し、彼を英雄として期待する空気が、軍中にみなぎっていた。しかし韓信は、興奮状態にある年若い者たちよりも、もっと冷静であった。早く将に率いられて秦軍を皆殺しにしたいと息巻く者たちの集まりの中で、彼は少し違う意見を言うのであった。
「勢いは大事だが、勢いだけでは勝てないぞ。相手をよく知らずに戦えば、決して勝利は得られることがない。秦軍は、軍略のある兵だ。軽軽しく勝てるなどと思うのは、過ちだ。」
こんな意見を言えば、誰かの怒鳴り声が飛んで来るのであった。
「― 敵に臆するような男は、項軍にいらん!出て行け!」
「― そうだ、そうだっ!」
勇気を尊ぶ彼らにとって、さも智恵を隠しているかのように冷静な発言をする韓信は、毛色の違うはみ出し者であった。韓信は、付和雷同して指弾する年若たちに囲まれて、肩をすくめるばかりであった。
そのような毛色の違う韓信に、どういうわけか小楽だけはなついていた。
まだ十五歳にしかならぬ、少年兵であった。本当の名前は、賀安楽と言った。
「こんな名は、嫌いですよ。父は安楽に生きろと思って、付けたのでしょうか?もっと勇ましい名前に、変えようかな、、、?」
小楽を、韓信はたしなめた。
「父上がせっかく名付けられた名であろうが。勝手に変えてはならないよ。」
項軍では、季布とか龍且とかの威勢のよい武将が、人気があった。季布は楚の任侠で、戦えば命知らずの男であった。龍且は、武勇だけではなくて軍略もあると評判であった。彼らに較べれば、韓信はいかにも覇気に欠ける人であった。そんな人気のない彼の、どこを小楽は気に入ったのであろうか。
「昔、父が県吏の人に頼んで、私に読み書きを教えたことがあったんですよ。でも、私は刀筆なんて嫌いで。県吏の人がせっかく私の家に来ているのに、私は逃げちゃいました。そんなことが続いて、結局授業は取りやめ。父が県吏の人に、すまないすまないって謝っているのを、私は横で知らん顔で聞いていて、、、でも、その県吏の人がとても悲しそうな顔を、していたんですよ。何か悪いことをしたかなあって、思いました。」
「本当に悪い奴だな、お前は。」
韓信は、小楽の郷里での話に、苦笑した。
小楽は、続けた。
「― その県吏の人に、韓郎中は似ているんですよ。どことなく。それで、一人でいられるんで放っておけなくて。」
「おい!変な気遣いだ!」
韓信は、怒ったふりをした。
小楽は、言った。
「私は結局読み書きも学問も、これまで全然やってません。それで、父が止めるのも聞かずに項将軍に付いていって。もう将軍のお姿を見たら、そのときは黙っていられませんでした。でも、やっぱり心残りなんです。これだけじゃ、何か足りないなって。韓郎中は、何か項将軍や他の方々と、違うものを持っておられるんです。韓郎中の言われることが、私にはどこか気になるんです。皆は、無視してますけれど。だから、何でもいいから私に教えてくださいよ。聞き役に、なってあげますよ!」
「こいつ、小楽!」
可愛らしい、少年であった。韓信は、彼から出すぎた言葉を掛けられては叱りながら、彼がやって来るのを快く許した。
小楽が、韓信に聞いた。
「それにしても、どうして我が軍は進まないのですか?」
趙救援のために彭城を出た卿子冠軍は、河水(黄河)の南の安陽にまで進んだ(注:殷墟の近くにある現在の河南省安陽県とは、別の土地)。
ところが、ここで上将軍の宋義は全軍に停止令を出した。駐屯してそれ以降進まず、すでに十日が過ぎようとしていた。
韓信は、自分の知っている限りのことを、答えた。
「上将軍は、どうやら斉軍の加勢を待っているようだ。斉に向けて、頻繁に使者が往来している。軍勢が整わないうちに動かないのも、確かに一つの軍略ではあるが、、、」
大軍を長期間留まらせると、兵卒が惰弱に流れるだけでなく、兵糧の浪費にもなる。
(何を考えているのだ、奴は、、、)
彼は、すでに宋義が裏のある人物であることを、知っていた。彼は、上将軍の真意を疑った。

この頃、次将の項羽は、宋義の陣営の中で激しく口論していた。
「いつまで、この安陽に居着いているのですか!河水の向こうでは、秦が趙王を包囲しているのですよ!どうして、駆け付けて趙軍と呼応して戦わないのですかっ!」
項羽は、宋義の前に置かれた机を、どかん!と叩いた。
青銅の机は、項羽の拳によって大きくゆがんだ。
宋義は、怒る項羽を目前にしながら、しかし何ほども驚かなかった。
彼は、言った。
「― 君は、勇猛だな。」
宋義は、項羽を誉(ほ)めた。しかし、その口調は、大人が少年の血気に軽く笑っているそれであった。
「鎧を着て武器を取る勇猛さでは、君は私よりずっと上だ。しかし、陣に坐して軍略を練る才では、私のほうが君よりも上なのだよ。私がここに止まっているのは、軍略なのだ。」
項羽は、宋義の言葉に、怒って返した。
「戦わずに居着いているのが、軍略なのですか!進まなければ勝つことができないでは、ありませんか!」
項羽は、もう一回机を叩きのめした。今度こそ、机は真っ二つに裂けた。
しかし宋義は、壊れた机に見向きもせずに、答えた。
「― 囲碁ではないんだぞ、項羽。」
宋義は、彼のことを次将と呼ばず、字(あざな)で呼んだ。完全に、子供扱いしている口調であった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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