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九 断!(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

その晩、斉の使者のところに、急ぎの伝令があった。

一人の少年兵が、小声で使者に取り次ぎを申し出た。
「上将軍からの、命にございます。内密の、命でございます―」
入って来たのは、小楽であった。
使者は、上将軍の命であると言うので、少年を通した。
小楽は、言った。
「― 例の件について、これよりすぐに立つようにとの、仰せでございます。馬車の用意は、すでにできております。早く、お乗りくださいませ。」
使者は、少年が伝令であったために、つい油断してしまった。
不測の事態が起こったか、と判断して、少年兵が申すとおりに馬車に飛び乗った。
馬車は、斉の使者を乗せて陣営を出た。
使者は、御者に言った。
「行き先は、彭城であるな。」
御者は、言った。
「彭城?、、、何をしに、行かれるのですか?」
使者は、言った。
「お前ごときが、知るべきことではない。」
馬車は、道の途中でやおら停車した。
冬の湿った冷気が、周囲を支配していた。
闇夜であった。馬車と共に走る松火(たいまつ)持ちの火だけが、道を照らしていた。
使者は不審に思って、御者たちに言った。
「おい、、、なぜ、停まるのだ?急げ。」
そのとき、使者の目の前に長剣が光った。
「― 隠していることを、言ってもらおうか。」
そう言って松火持ちの男が、使者の横の席に乗り込んできた。
松火持ちの男は、韓信であった。
馬を操っていたのは、呂馬童であった。彼と小楽は、韓信に言われて使者をおびき出す役目を請け負ったのであった。機密を聞き出すには使者を捕えて叩くべきであると、韓信は考えたのであった。
韓信は、使者から奪った書簡を読んで、驚愕した。
「宋義、、、やはり!」
彼は、直ちに陣営に引き返した。

彼が向かったのは、次将の項羽のところであった。
事態は、一刻の猶予もならないところまで来ている。
もはや、卿子冠軍の命運を、そして楚の命運を変えることができる男は、彼しかいない。
韓信は、迷いもせずに項羽の陣に向かっていった。
韓信は、項羽に言った。
「宋義は、売国者です。彼は、楚を斉に売ろうとしています。」
項羽は、その内容を聞いて青ざめた。
韓信は、言った。
「宋義は、斉に寄り沿うことによって楚を犠牲にして己の栄達を望んでいるのです。彼の正体は、見えました。」
彼の異形の瞳は、怒りに包まれ始めた。
灰色の瞳が、狼の眼に変わっていった。
「田栄が、虞美人を見たいだと、、、身の程を知れ、、、」
項羽は、あまりの怒りのために、ほとんど動かなくなった。
韓信が、言った。
「このままでは、趙が亡びます。趙が亡べば、もはや秦の優位を覆す術はありません。楚は、亡国となるでしょう。」
項羽が、言った。
「ならば、、、どうすればよいか。」
韓信は、答えた。
「宋義を除き、、、兵を動かされよ。」
項羽は、しばし黙然としていた。
彼は、剣を取った。
そして、陣営の外に歩き出た。
冬の空は、いまだ明けていなかった。また、雨が降り出していた。
早晨の闇を、項羽は肩を濡らしながら、上将軍の居場所に向って行った。
宿舎に着いて、項羽は戸を蹴破った。
項羽は、恐ろしい声で怒鳴った。
「宋義!宋義は、どこにいるか!」
闇の中で、動く影があった。
項羽は、その方向に駆けて、影に対してひたり!と剣を当てがった。
「― 上将軍、宋義。どこにいるか、、、」
動いた影は、斉の使者の一人であった。
使者は、震えながら答えた。
「じ、、、陣営に戻っております。自分の、陣営に、、、」
語る言葉から、相手が斉人であると項羽には知れた。
項羽は、剣を払った。
使者の首が、飛んだ。
項羽の甲(よろい)に、鮮血が流れた。
項羽は、甲の返り血などは気にも止めず、斬るための邪魔とならぬために剣に付いた血だけをぬぐい去って、上将軍の陣営に急いだ。
早朝の陣営に、乱入する物音が起こった。
乱入者は、守備の番兵を次々に跳ね飛ばして、奥に進んでいった。
上将軍は、大きな帳(とばり)の中で休んでいた。
項羽は、帳を剣で切り払って中に入った。
「― 宋義!」
宋義は、大音声に驚いて、寝所から跳び起きた。
「― 孺子(こそう)っ!」
宋義は、項羽の血に染まる甲を見て、凍り付いた。
項羽は、言った。
「お前は、生きていては、ならない!」
宋義が、あっと言う声を立てる間も、なかった。
項羽は、鳥のように一跳びした。
次の瞬間、宋義の首は胴と離れて、横の帳に飛んで行き、跳ねて落ちた。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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