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八 売国知将(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

韓信は、北の趙戦線で陳餘が大敗したことを聞いて、趙の崩壊が近いことを予感した。

「― 愚劣極まる、戦術だ!」
韓信は、伝えられた戦の経過を知って、悲嘆した。
「陳餘は、兵を損ねただけでなく、趙国の戦意までも損ねたに違いない、、、趙国は、まもなく亡ぼされる。」
韓信の目には、疑いがなかった。
しかし、そんな危機にもかかわらず、卿子冠軍は留まったままであった。
もう四十日以上も軍を留まらせていたのは、上将軍の宋義であった。
その宋義は、ここ数日間不在であった。
彼は、自分の息子の宋襄が斉で高位の職に就くことが決まったため、息子を斉に送り届けていた。宋義は、わざわざ斉の無塩(ぶえん)という土地まで、息子と共に連れ立って行った。その土地で、送別の宴と称して斉人たちも招いて豪勢に飲食して来たのであった。
上将軍は、大勢の斉からの使者を連れ立って、自軍に戻ってきた。彼は、満面の笑みをたたえて帰ってきた。
「― ご子息といえども、楚軍の一員。送別なさるならば、どうして我が軍中でなさらなかったのか?自軍の将卒官吏を差し置いて、こそこそと他国に出向いて他国人と飲み食いするとは、、、解せぬ行動だ。」
軍中の者たちは、このように疑惑の目を向けた。
しかし、宋義の見方は、違っていた。
(― 秘中の秘を、この思慮浅い者どもに知らせてはなるものか。)
彼が息子を斉に送ったことには、裏の事情があった。
宋義は、自分の宿舎に戻って、彭城の懐王へ送る書簡を起草し始めた。
彼は、机に向かいながら、思った。
(― ついに、斉は秦と妥協することが決まった。やむないことだ。)
これが、秘中の秘の内容であった。
斉は、かねてから秦の章邯によって降伏の工作が行なわれていた。斉は、秦に降伏することによって、王国の存続が許されるというものであった。斉の朝廷はこれまで揺れ動いていたが、このたびとうとう秦に順応すべしという結論を出したのであった。宋義は、斉と楚の交渉を担っていたことによって、朝廷の意思をいち早く知った。それで、直ちに彼の方から工作を開始した。息子が斉の高官となることが決まったのは、その工作の一環なのであった。
(もはや、楚の勝機は完全になくなった、、、この上は、斉を太らさなければならない。)
宋義は、秦と斉とが一致すれば、楚には万が一つの勝ち目もないと判断した。楚を滅亡から救うために、彼が考え出した策とは― 楚を、斉の属国とすることであった。
(楚を、斉の属国とする。こうすることによって斉は強大となり、秦と天下を二分できるだろう、、、両国が生き残るためには、やむをえないことだ。)
この策を斉の宰相田栄に打診したところ、田栄からの回答はこのようであった。
― 楚の懐王が、斉王に臣下の礼を取ること。それから体制を一新して、斉の信頼できる人物を、上柱国(じょうちゅうこく。楚の宰相)に就けること。
これであった。斉人には、中原諸国の中で最も学問の伝統を持った文明国であるという自負があった。それゆえ南蛮の国である楚を、激しく軽蔑する伝統もまたあった。このような斉と楚の間に、対等の関係はありえなかった。斉に楚を受け入れさせるためには、楚王が斉王に臣下の礼を取ること。これ以外、斉は認めなかった。
宋義は、田栄の要求を聞いて、これを受け入れるために工作することを決めた。
(私は、懐王に大きな影響力を持っている。懐王を、動かすことができるのだ。私は、密かに動いて懐王を説得するだろう。そして私は楚で上柱国の位に就いて、大権を持って反対者を除くだろう。すでに、私と斉とのつながりは固く築かれている。息子が斉で高位に就いたのは、斉から私への期待の表れだ。私の活躍により、両国は保たれるであろう。これも知者にしかできぬ、仕事であるよ、、、)
彼は、自分流の使命感を心に感じて、感無量であった。
これが、宋義という人物であった。彼の国士としての仕事ぶりは、自分の地位を利用して、国家の間をつなぐ類いのものであった。当然、見返りとして最高の地位を要求するのは、彼にとって当たりまえの報酬なのであった。
宋義は、懐王を諦めさせるために、長々と説得の文書を書いていた。書簡を書き終えたら、連れ立ってきた斉の使者に渡した。明朝直ちに彭城に赴かせて、極秘のうちに懐王に渡す手筈であった。
書簡を手渡した後で、宋義は先日の宴席で斉の高官から耳打ちされたことを、ふと思い出した。
「ああ、そうそう、、、こんなことも、申しておったな。」
宋義は、使者を呼び止めて、別の書簡を書き下ろした。
このような、内容であった。
― 宰相の田栄は、楚に名の聞こえた虞美人を、両国の友好のために斉都の臨湽(りんし)で舞わせることを、望んでおります。
書き終えて、宋義は苦笑した。
「ははは。宰相は、好色なお方だ。」
当然これには、舞わせた後に己の後宮に入れるという含意があった。良きに計らってやるから、贈物を寄越せということである。宋義にとっては、いとも易い条件であると思われた。
そのとき。
「上将軍!、、、上将軍は、おられますか!」
宿舎の外から、男の声が、響いてきた。
宋義は、びくりとして使者に渡そうとした書簡を、引っ込めて懐に入れた。
男の声が、続いた。
「― 本日は、上将軍の戦略をどうしてもお聞きしたくて、無礼を押して参上いたしました。軍中では、苛立ちが抑え切れないほどに高まっております。趙は、このままでは間もなく秦に亡ぼされます。いったい今後どのような戦略をお考えなのか、今は全員に開陳するべき時期であると、愚考いたします、、、上将軍!」
宋義は、書簡を使者に渡して、すぐにこの場から立ち去るように合図をした。
宋義が戸を開けてみると、外にいたのは郎中の韓信であった。
宋義は、韓信を怒鳴りつけた。
「郎中のぶんざいで、上将軍に意見しに来るとは、何ごとであるかっ!去れ、去れっ!」
「― 上将軍!戦機は、去ろうとしているのですよ!あなたは、楚が敗れるのを望んでおられるのですかっ!」
「お前の知るところではないわっ!、、、去れっ、去らないか!」
そう言って、宋義は戸の外に韓信を押し出した。
韓信は、宋義から追い出されたとき、斉の使者がこそこそと宿舎から出て行くのをちらりと見かけた。
彼は、宋義たちが何かを隠していることを、直感した。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章