«« ”七 昌邑の餓狼(2)” | メインページ | ”八 売国知将(2) ”»»


八 売国知将(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

沛公は、彭越と共に昌邑の秦軍を攻めた。

だが、もとより長く戦う気などなかったので、城が簡単に陥ちないと判断すれば、沛公はさっさと引き上げることにした。
沛公は、彭越に言った。
「俺は、いったん戻る。お前は、秦軍が出てくるのを邪魔さえしておけばよい。後は、好き勝手に戦え。俺が、許す。」
彭越が、言った。
「そうだ!そう来なくてはならねえ。盗賊は、得のない戦などしてたまるかよ。」
沛公と彭越は、二人で声を立てて笑った。二人は、生きる道がどこかで似通っていた。
そこに夏候嬰が、やって来た。
「公!出発いたしますよ!」
彼は、むくれた顔で沛公に言った。彭越には、一言も声を掛けなかった。彼のみならず、沛公軍の者たちは、この主君の新しい同盟者のことが好きでなかった。
彭越は、そんな夏候嬰たちを見て、つぶやいた。
「いい手下を、持っているな、、、あんたは、本当に極悪人だぜ。うらやましい、うらやましいよ、、、」
こうして、沛公軍は南に戻っていった。
戻ってからの沛公の動きは、少しこれまでとは異なっていた。
まず、拠点の碭(とう)に近い栗(りつ)において、剛武候の兵四千余を奪って自軍に編入した。
それから、魏に接近して、盛んに協力を始めた。魏の将軍皇欣、申徒武蒲といった諸将が、沛公と足並みを揃えて進軍することとなった。
これらはあくまでも、楚の一隊として兵を整え、かつ他国と共に秦を防ぐという名目であった。彼の肚の中に何が隠されていたのかは、余人の知るところではなかった。だが、沛公軍はすでに単独で一方面の作戦を行なえるほどに、増強されていった。
碭(とう)に戻って来た沛公を、丞の蕭何が出迎えた。
「兵数を、ずいぶん増やしてご帰還なされましたね。」
沛公は、蕭何に言った。
「これから、もっと大きな作戦となる。お前の力が、ますます必要だ。頼むぞ。」
蕭何は、言った。
「― 西に、向かわれるのですか。」
沛公は、彼の鋭い読みに、うなった。
「これまでの戦とは、勝手が違う、、、お前は、後背を守ることができるか?」
蕭何は、深く拝礼して言った。
「わかりません。ですが、私のできる限りのことを、いたします。」
沛公は、彼の正直さを喜んだ。
「お前にできなければ、我が軍の誰にもできはしないよ!」
沛公は、それから奥の陣営に入っていった。
周勃、廬綰、それに夏候嬰が、彼を待ち受けていた。
廬綰が、沛公に言った。
「公。同盟軍から、付け届けが来ておりますよ!」
彼は、不機嫌であった。沛公は、聞いた。
「同盟軍?付け届け?、、、何だい、いったい?」
周勃が、言った。
「奥に― おります、です。」
沛公は、ははんと勘付いて、奥に入って行った。
一刻ほど経って、ようやく彼は諸将のところに戻って来た。
「彭越めが、、、気の効いた付け届けじゃないか。こりゃ、戚氏の女とかはもっと期待できそうだな、うはははは!」
奥にあったのは、彭越から送り届けられた女が数人であった。彼流の、沛公への気配りであった。
「公!、、、いい加減に、なさいませ!」
夏候嬰は、そのような沛公を怒った。

さて、肝心の卿子冠軍であるが、こちらは何と四十日を越えても、まだ安陽に居着いたままであった。
大軍の宿営には、冬の冷たい雨が降っていた。南の温暖な気候に慣れた項軍の兵たちは、昼間ですら凍えてしまいそうであった。
宿営の一つから、韓信の声が静かに響いてきた。
「― 東西に百歩、南北に二百五十歩の田があるとする。この田は、何畝となるか?」
小楽は、目を閉じてしばし考えて、答えた。
「― 二百五十畝。」
韓信は、言った。
「よし。では、その田一畝ごとに、一斛(こく)の麦が取れるとする。麦一斛で、兵一人を二十日間養うことができる。兵数が千人いるならば、何日養うことができるか?」
韓信は、地面に数字を書いて、小楽に解かせた。
小楽は、うーんと考えた。
それから、言った。
「全部で、五千日分の麦。だから、千人ならば、、、五日!」
韓信は、手を叩いて喜んだ。
「そうだ!筋がいいぞ、小楽!」
小楽は、滞陣しているばかりですることがないために、毎日韓信のところに来ていた。韓信は、そんな小楽に字や算術を教えていた。相当に、飲み込みの早い子であった。韓信は、毎日喜んで彼に算術の問題を出したり、読み書きを教えたりしていた。
「驚いた。もう乗算除算まで、できるようになったな。字を覚えるのも、早い。大した奴だな、お前は!」
韓信は、にこにことして小楽に言った。
「へへへ。」
小楽は、誉められて照れ笑いをした。
韓信は、彼を誉めて言った。
「もう少し字を覚えれば、お前は軍吏になれるぞ。兵卒から、出世できる。私が、推薦してやろう。」
小楽は、誉められついでに、彼に言った。
「― じゃあ、兵法も教えてくださいよ、韓郎中。郎中は、兵法にすごく詳しいと聞きました。私は、字や算術なんかよりも、そっちを学びたいな!」
韓信は、しかし今度は喜ばなかった。
「だめだ。兵の恐ろしさを知らないうちは、兵法など学んではいけない。」
韓信は、首を横に振った。
小楽は、不満そうであった。
彼は、韓信に言った。
「― 私は、将になって項将軍のお役に立って、楚を救いたいんです、、、」
小楽は、少年が信頼する大人に向けた率直さで、韓信に語った。
「韓郎中、教えてくださいよ。楚には、いったい何が足りないのでしょうか?どうして、我が軍は進まないんですか?項軍に勇気が足りないわけが、ありません。だったら、智恵が足りないのでしょう。だから、私は兵法を学んで、皆のお役に立ちたいんですよ。皆のために。項将軍の、ために、、、」
韓信は、小楽の素直さが、耳に痛かった。
彼は、いまや戦機が去ろうとしていることを、知っていた。それで、内心ひどく苛立っていた。韓信は、上将軍宋義の真意に、再び疑いを強くしていた。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章