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二十八 胡亥死すべし(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

弑逆の日は、始まった。

閻楽は、予定通り千余人の捕吏兵卒を召集し、望夷宮に向かった。
宮城の殿門に至り、閻楽は配下に命じて衛令と僕射(ぼくや)を、捕縛した。先手を打って、禁衛を司る長官の動きを取れなくしたのである。
閻楽は、彼らに言った。
「賊がこの門から侵入したのに、どうして止めなかった!」
衛令は、何のことだか分からず答えた。
「宮城の外周には衛舎があり、各所に衛卒を配置して守っております。賊が入ることなど、ありえません、、、」
むろん、閻楽の演技にすぎなかった。
閻楽は、問答無用と衛令を斬り捨てた。
それから吏卒を率いて、賊を捕えるという名目で宮城に乱入した。
大混乱が、始まった。
「― 刃向かう者は、斬り捨てよ!」
閻楽は、命じた。
宮城には、皇帝の下僕である多数の郎と宦者がいた。彼らは驚いて、上へ下への大騒動となった。遮る者は、皆斬って捨てられた。数十人の屍が、宮城の中に転がった。
郎中令が、閻楽のもとにやって来た。
「陛下は、幄座(あくざ)におられます、、、こちらへ。」
郎中令は、閻楽を皇帝の居場所に連れて行った。
幃(とばり)を巡らせた奥の座が、皇帝の御座所であった。
閻楽たちは、礼もせずずかずかと御座所に踏み込んでいった。
二世皇帝が、いた。
もはや百官の前にすら姿を見せず、繭にくるまれた蛹(さなぎ)のように、奥深くにひそんで自分だけの世界に閉じこもっていた男、胡亥。
この青年が、世界の主人なのである。
「ひっ、、、!」
胡亥は、突然挿した外からの光に、一瞬おびえた。
彼は、自分の予想外のことが少しでも起ることを、恐れて忌み嫌った。それで、周囲の郎や宦者どもは、毎夜の燈火を灯すことにも、食事を運んで物音を立てることにも、陛下が驚かないように極端な注意を払っていた。そのため、彼の周囲ではわずかな物音も、わずかな光のゆらめきも、不意に起ることはありえなかった。彼にとって、時間は止まっていた。
郎中令が、現れた。
彼は、胡亥の前に立って言上した。
「陛下。退位のときが来ました。」
「あうあ?」
もはや、胡亥は言葉すらしゃべれないほどに、退化していた。
郎中令が、もう一度はっきり申し上げた。
「― 陛下。退位なさいませ。」
「あえ?あえれれ?」
後ろから、閻楽が声を掛けた。
「やめろ、やめろ!、、、胡亥!中丞相の命により、お前を除きに来た。お前は、もう皇帝でない。」
大声ではっきり言われた胡亥は、突如として正気に帰った。
彼は、久しぶりに人間の言葉を出した。
「― そうか。まあ、やりすぎたからな。」
胡亥は、にこにことしながら、あっさり退位を認めた。
胡亥は、言った。
「よろしい。朕は、引退する。後は、よきに計らえ。そうだな― 朕はこれから、諸国を旅してみようと思う。久しぶりに、外の世界が見たくなった。中丞相に、そう伝えるがよい。」
胡亥は、嬉しそうであった。
閻楽は、弩(いしゆみ)を取った。
矢をつがえて引き金を留め、胡亥に向けた。
「― 死ね。」
胡亥は、向けられた矢を見て、ぼそりと答えた。
「いやだ。」
閻楽は、もう一度言った。
「死ね!昏君!」
胡亥は、言った。
「中丞相に、会わせろ。」
閻楽は、答えた。
「うるさい。そんな暇は、ない。」
胡亥は、怒気を見せた。
「朕は、皇帝だぞ!」
閻楽は、あきれたような声を挙げて返した。
「だぁから、もうお前は皇帝じゃないんだって!、、、秦帝国は、もう終わったんだ!」
胡亥にとって、この言葉は全く理解できないものであった。
「え?」
閻楽は、言った。
「もう、関中以外の土地は全部楚のものになったのよ。関中ですら、武関が破られた。知らないのは、お前だけだ。」
閻樂は、引き金を引いた。
矢が、胡亥に向けて飛んでいった。
「やっ、、、やめろ!やめろ!」
胡亥は、幃(とばり)の奥に隠れた。
矢は、幃を貫いた。
薄絹の幕が、ぴりりと断ち切られて、落ちた。
御座所の後ろに、一人の宦者が控えていた。
胡亥は、宦者の側に駆け込んで、言った。
「どうして、、、どうしてこんなになるまで、朕に何も言わなかったんだ!」
宦者は、つぶやいた。
「申し上げなかったからこそ、この臣は陛下のお側にいるのです。もし申し上げれば、首が飛んでおりました、、、」
そう言って、うなだれた。
「逃げるな!昏君。」
閻楽は、胡亥に向けて再び矢を打ち込んだ。
胡亥は、幄座から逃げ出した。
走る彼を、閻楽たちは追い掛けて、宮城のさらに奥へと追い詰めて行った。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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