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二十八 胡亥死すべし(3)

(カテゴリ:楚滅秦の章

回廊を逃げる胡亥を、閻楽たちは剣を光らせて追い掛けた。

剣も何もできない皇帝は、彼らに立ち向かうこともできなかった。ただ、逃げ惑うばかりであった。
「― あそこだ!」
皇帝が飛び込んだのは、宮城の一番奥にある、斎戒の間であった。
閻楽と配下の者たちは、堂内に踏み込んだ。
「― ふん。妻子まで、揃っているようだな。都合がよい。」
堂内には、胡亥と共に、女子供たちが恐怖で寄り添って震えていた。胡亥の、妻子たちであった。
胡亥は、妻子の前であたふたしながら、閻楽に懇願した。
「趙高!趙高に、会わせておくれよ。もう秦がだめなんだったら、趙高と共に逃げたい。」
閻楽は、言った。
「― その趙高が、お前を殺せと命じたのだ!」
「ひえっ、、、!」
胡亥は、心が砕けた。自分の手足はおろか、口も目も耳も頭ですらも、彼は趙高に頼り切りであった。その自分の全てとも言える趙高から死ねと言われれば、もはや彼はおしまいであった。
閻楽は、胡亥に言った。
「よっく、聞けい!お前は驕慢にして、これまでの無数の臣下と民を殺してきた。その所業、無道である。ゆえに、天下はことごとくお前に叛いた。お前に残されている道は、ただ一つ。妻子ともども、自から命を断つがよいわ!」
閻楽は、剣先を胡亥に突き付けた。
胡亥は、腰を抜かして立ち上がることもできなかった。
「丞相に、、、趙高に、会わせてくれ!」
胡亥は、またも懇願した。
閻楽は、拒絶した。
「丞相の命だ。自殺しろ、早く!」
胡亥は、言った。
「いっ、、、一郡だけもらって、王として残れないか?」
閻楽は、聞かなかった。
胡亥は、言った。
「郡でも、大きすぎる?、、、なら、万戸候。」
閻楽は、配下の兵卒に命じた。兵卒が、どやどやと堂内に入って、胡亥たちを囲んだ。幼い子供たちが一斉に泣きわめいて、声が堂内に響いた。
胡亥は、言った。
「もう、何も要らない。妻子と共に、黔首(けんしゅ。人民)に落としておくれよ。それで、きれいさっぱり君主の生活とは、おさらばだ。ね、それでいいだろ?」
胡亥の妾の一人が、乳飲み子を抱えて逃げようとした。
閻樂は、駆けて女と子供を一刀のもとに、斬って捨てた。
悲鳴が、沸き上がった。
閻楽は、振り向いて胡亥に言った。
「自殺できないならば、斬り殺す!、、、死ぬのか?殺されるのか?早くしろ!」
君主が君主でなくなると、情などはありえなかった。それは、秦帝国の朝廷の原理であった。いや、大帝国の朝廷というものは、皆が己の欲望と保身しか考えずに寄り集まっている伏魔殿なのである。力があるから、下は上に従い諂っているだけであった。朝廷というものは、表面では美辞麗句が乱れ飛び、だがその内実は胸のむかつくごとき世界であった。そんな朝廷は、秦以降の中華帝国においても飽きるほど見られることであろう。
胡亥は、責め立てられて、ついに剣を握った。
だが、妻子たちの前に近寄ると、手を下すことができずに泣き崩れた。
閻楽は、言った。
「― お前、何の芝居してるんだよ。」
胡亥は、泣きながら言った。
「う、、うるさいっ!お前も、子がいるだろうが!子は、、可愛いだろうがっ!」
胡亥は、即位してからこの方三年、快楽を追い求めることを毎日の最優先としていた。関東が大争乱となってからの年月は、後宮にしか居場所を定めなかった。数多の妻子たちは、その結果であった。荒乱の程だけは、父帝よりも上回っていた。
閻楽は、わざとあきれたような声を出して、胡亥を愚弄した。
「― 李斯を親子ともども虐殺したお前が、今さらよくそんなことが言えるなぁ!は、は、は、は!」
胡亥が動こうともしないのを見て、閻楽は剣を持って近寄った。
「ほらほら、時間がないんだよ。」
そう言って、胡亥が眺めていた目の前の男の子を、剣でぐさりと刺し殺した。
胡亥は、顔を体液でいっぱいに汚しながら、閻楽にすがり付いて懇願した。
「やっ、、、やめて!やめて!」
閻楽は、胡亥を振り解いて、怒鳴り付けた。
「早く死ねよ!見たくないんだろ?だったら、お前から死ね!先に死ねば、見ずに済むだろうが!」
胡亥は、小さくなって言った。
「、、、死ぬのは、こわい。」
閻楽が、言った。
「じゃあ俺が、お前を殺してやる。」
胡亥は、もっと小声になって、言った。
「いやだ!、、、殺されたくない。」
閻楽は、舌打ちをした。
「ちっ、、、どっちなんだよ。」
そう言って、次に女の子一人を串刺しにした。
子の虐殺を呆然と見る胡亥に対して、閻楽は言った。
「もう兵卒は、お前のために万余が死んでいる。死ぬなんて、呆気ないものだぞ。お前は、死ぬまでにこうしてだらだらと時を過している。その分だけ、苦しむだけだ。早く死ね。その方が、お前のためだ。」

ついに、胡亥は観念した。
胡亥は、剣を持って自ら首刎ねようとした。
閻楽は、胡亥に言った。
「失敗しても、すぐに楽にしてやる。そのまま思い切り、剣を前に引け。」
胡亥は、最後に閻楽に声を掛けた。
「ねえ、ねえ」
閻楽は、顔をしかめて返した。
「なんだよ。」
胡亥は、聞いた。
「― 死んだら、その後はどうなるのかな?」
閻楽は、一言だけ答えた。
「知るか。」

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章