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二十九 亡国の鑑(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

かくして、胡亥は自殺した。

二世皇帝は、秦帝国の最後の皇帝となった。始皇帝が永久に続くことを前提として制定した秦帝国皇帝の称号は、たった二人にしか使われることがなかった。
胡亥の後を継がされた男は、もはや皇帝とされなかった。元の秦王に、戻された。
趙高の、意見であった。彼は、百官を召集して胡亥の誅殺を告げ、その上で宣言した。
「― 始皇帝は天下に臨んだゆえに、皇帝を称した。しかし、秦はもともと王国であった。今や、六国が再び立ち並び、秦の地は小さくなった。もはや、皇帝の名はふさわしからず。継がれる者の称号を、再び秦王に戻すべし。」
彼は、このような理屈を述べ立てた。だがその裏では、沛公と取引しようと企んでいた。皇帝の号を除いて王としたのは、楚と対等であるという見せかけを作って、相手を交渉の席に着かせようという姑息な策略に違いなかった。
趙高が後継者として引っ張り出したのは、子嬰という秦の公子であった。
子嬰は、『史記』秦始皇本紀で胡亥の兄の子と書かれている。ここで兄とは扶蘇のことであるから、扶蘇の子すなわち始皇帝の孫ということになる。
しかし、これはあまりにも年齢が合わなさすぎる。蒙恬列伝では、胡亥が趙高と共に蒙恬らを殺戮しようと望んだとき、子嬰が進んで諌めたと書かれている。もっと言えば始皇本紀では、子嬰は趙高に擁立されるに当って、今後どうするべきか自らの子と相談をしたなどという記述すらある。これらの記述が正しいならば、子嬰は胡亥などよりもずっと年配であったはずである。五十歳で死んだ始皇帝の孫が、祖父の死から四年後の時期に子が成人している程に、年を取っているわけがない。
古来、二種の疑義が注釈家から出されている。一つは、子嬰は胡亥の兄であったという説である。もう一つは、子嬰は始皇帝の弟であったという説である。すなわち胡亥の兄の子あるいは始皇帝の孫という記述は、伝承の誤りであるとみなす立場である。
もし、扶蘇の子あるいは始皇帝の孫という『史記』の記述が真正であるとするならば、あるいはその真意は、以下のようなところにあったのかもしれない。すなわち、子嬰は扶蘇の子と「みなされて」、即位したのではないだろうか。子嬰が秦王を継ぐに当って、扶蘇は本来即位するべき公子であったと位置付けられた。ゆえに、秦の大統は始皇帝から扶蘇に、そして扶蘇の子に移るのが正統であると考えた。子嬰はよって扶蘇の後を彼の子として継承することによって、秦の正統を継いだと位置付けられたのではないか。以上は、筆者の想像である。
もしこの想像が正しいならば、胡亥は簒奪者と位置付けられることになる。実際、胡亥は死んでから黔首(けんしゅ)すなわちただの人民の格式で、適当に埋葬された。二世皇帝としての扱いを、死後に受けていないのである。それにしても趙高は、ひどいことをする。
子嬰は、少なくとも秦の王族であったろう。だが、始皇帝の一族からどれだけ近かったは、よくわからない。年齢的に見て、やはり始皇帝の異母弟あたりであったろうか。しかし胡亥の兄という説は、果たして成立するだろうか。胡亥以外の始皇帝の子は、彼の即位直後に全員粛清されてしまったはずなのである。

趙高は子嬰と会見して、秦王の位を継ぐように言った。
「― 自ら斎戒して、王室の宗廟において謹んで秦の玉璽を受けたまえ。公子以外に、秦王を継がれるお方はおられません。」
子嬰は、だが胡亥ほど愚者ではなかった。
彼は、趙高に言った。
「もはや、賊軍は武関すら破ってしまった。秦は、もう終わりだ。このような王位など、何の意味もないわ。」
子嬰は、趙高を睨み付けた。
趙高は、平気であった。
「ゆえに、皇帝の称を廃して秦王に戻したのです。秦による天下の支配は、すでに終わりました。これから後は、秦王国を保つために力を尽さねば、なりません。」
子嬰は、怒った。
「もう、我が軍も敵に降り、頼みの関すら陥ちたのだ。これで、どのように秦を保つことができると申すのか!」
子嬰は、趙高に全てお前のせいだ、と言いたくて、厳しい視線を向けた。
趙高は、平気な顔をして、子嬰に言った。
「ご心配は、ございません。臣には、秦を保つ秘策がございます。」
子嬰は、さらに疑い怒った。
「秘策?、、、今や楚は、関東の諸国全てを従えているのだぞ!もはや、戦っても無駄だ。外交の、余地もない。趙高!お前が何を企んだところで、どうせ無駄だ!どうせ、亡びるのだ!浅智恵の宦官ふぜいが、身の程を知れっ!」
子嬰は、口を極めて趙高を罵った。秦の社稷を食い破ったこの宦官に対して、彼は王族として言わずにはおられなかった。
しかし趙高は、それでも平気であった。
彼は、老婆のような奇怪な顔で、にたりと笑った。あまりの不気味さに、子嬰は吐き気がしそうであった。
「ご心配、なく。臣が策を、聞きたまえ。」
それから趙高は、抜け抜けと言った。
「― 匈奴を呼び込んで、楚軍に当らせます。」
これが、趙高の秘策であった。
子嬰は、趙高の言葉に仰天した。
趙高は、得得と自分の策を語り始めた。
「匈奴に出兵を誘い掛け、代償として趙・燕・斉の土地を与えるのです。匈奴の騎馬兵は、侵入した楚軍など、軽く蹴散らしてしまうに違いありません。」
それから趙高は、近年の朔北の事情を語った。
「先年、冒頓(バートゥル)なる兇悪な単于が、父王を弑虐して即位いたしました。今や冒頓単于は東の東胡(トゥングース)に攻め込み、西の月氏にも食指を動かしています。支配する土地を次々に求める、欲の深い単于です。このような単于に土地を割譲すれば、喜んで兵を出して来ること、確実というものです。匈奴という夷を以って、楚という夷を制す。もうしばらくの、辛抱です。やがて、匈奴が楚を亡ぼすことでしょう。」
趙高は、まるで歌い出しそうな浮かれ方で、自分の必勝の策を述べ立てた。
戦国時代、匈奴は趙軍によって、南下が抑えられていた。
その趙を亡ぼした秦の始皇帝は、朔北の討伐をさらに大規模化して、長城を完成させた。この頃、匈奴の勢力は北に押しやられて、単于の頭曼(テュメン)は中国に手出しができなかった。
しかし、中国で陳勝と呉広が蜂起したちょうどその頃、匈奴では冒頓単于が即位した。冒頓は父の頭曼に嫌われ、あやうく殺されかけたこともあった。そこで息子は先手を打って、配下を指揮してとうとう父王を射殺し、王位を奪った。冒頓は気宇壮大で狡猾な性を持ち、この頃自らの帝国建設に取り掛かっているところであった。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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