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二十九 亡国の鑑(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

子嬰は、あまりの売国の策に、腰を抜かしそうになった。

「そ、、、それは、国を売ることではないか、、、」
彼は、やっとの思いで言葉を出して、趙高に言った。
趙高は、それを聞くや否や、表情を一変させて激高した。
「― それしか、方法がないではないか!」
趙高は、目をくわっと瞑(いか)らせて、子嬰に噛み付いた。老婆そのものの顔は怒りで変形し、子嬰は目をそむけたくなる衝動を押さえ切れなかった。
趙高は、子嬰を聞くに堪えない声で、罵り始めた。
「この秦のどこに、今さら兵が残っていると言うのか!お前が賊軍に勝てる兵を、持っているとでもいうのか!よいかっ、我らが生き残ることが、最優先なのだ!国のことなど、考えていられるか!どうせ、関東の民は全員逆徒だ。逆徒どもを、秦から匈奴にくれてやるのよ。賊に国を渡すぐらいならば、匈奴にでも荒らさせてやるわ!は、は、ははははははは!」
趙高は、高笑いをした。国のことなど、これまで何一つ考えていなかった本心が表れた。子嬰は、この宦官の虚無な心を覗いて、戦慄のために何も言うことができなかった。

子嬰は、自らの邸宅に戻った。
彼は、自分の家中の者たちに言った。
「― 趙高を、これ以上生かしておいてはならない。」
彼は家中で相談した結果、斎戒のためと称して斎宮に赴いたまま、そこに籠(こも)って外に出なくなった。
五日の後、趙高から督促の使者が来た。
「― 斎戒が終わられたならば、早く宗廟に向かって玉璽を受け取られよ。」
子嬰は、それでも外に出なかった。
さらに数回、趙高から督促の使者が向けられた。
子嬰は、督促を無視し続けた。
駆け引きすること、数日。
ついに、相手から斎宮にやって来た。
趙高は、宮城の門前で、声を張り上げた。
「宗廟は、大事でござるぞ。王よ、なにゆえ出て来られぬ!」
彼の声と共に、門が開いた。
「ふん!」
趙高は、ずかずかと踏み込んでいった。
誰も、彼を止めなかった。趙高は、一人で奥に進んでいった。生涯彼の隣に従うことができる人間などは、胡亥ただ一人しかいなかった。その胡亥を、趙高は狗(いぬ)のように捨てた。趙高は、誰とも生きることがなかった。
宮城の前殿に、趙高が入った。
そのとき、にわかに左右から人が現れて、趙高を包囲した。
包囲したのは、子嬰の家中の者たちであった。
奥から、子嬰が現れた。
「社稷を食い散らす、毒虫めが!、、、今ぞ、お前が死ぬ時だ。」
子嬰は、趙高をはったと睨み付けた。
趙高は、しかし子嬰を見ることもなかった。
彼は、虚ろな目をして、一人つぶやいた。
「やっと、殺す気になったか。人間は、愚かであるよ。こんなことに至るまで、私のような悪人を殺さなかったのであるからな、、、」
趙高は、乾いた笑いを口元に湛えた。
直後、趙高は左右から剣で刺し貫かれた。

趙高とその一族を誅殺した後、子嬰は秦王に即位した。
しかし、即位したところで彼にできることは、何もなかった。
沛公軍は、一日一日と咸陽に向けて歩騎を進めていた。
沛公は武関を破った後で、逃げた守将を直ちに追って、これを藍田の地で叩いた。張良は、このときにも擬兵を用いて自軍を大兵に見せかけ、敵の戦意を喪失させる策に出た。すでに踏み止まる力を失っていた秦兵は、簡単に擬兵に惑わされた。咸陽までの道々の秦兵は、戦う前から次々に降伏していった。
このとき張良は、沛公に勧めて軍紀を厳正にした。
「― 侵入した者が暴兵ならば、民を敵に回すことになります。掠奪、殺傷、強姦の類を犯す兵は、直ちに斬に処すと触れたまえ。」
沛公は、このときは張良の言葉を容れた。
張良に促されて、道中の邑で婦女をかどわかした兵を摘発し、斬って全軍への見せしめにした。
張良は、沛公の果敢な処断に感謝した。
「― 迅速なご処置、感服いたしました。」
沛公は、張良に言った。
「もうすぐ、咸陽か、、、咸陽を陥とすまで、だな。兵の我慢も、長続きはさせられん。」
張良は、彼が漏らした言葉に、一抹の不安を感じた。
ここ数日の沛公は、何やら気だるそうな様子であった。すでに関中の攻略は目の前であるにも関わらず、武関を破った頃までの元気が、どことなく失せているようであった。
沛公は、小声でつぶやいた。
「結局、あの子が秦を破ったんだよな。大した子だよ。関中で王になるなんて、あの子が許してくれるわけがねえ。さっさと陥として、一騒ぎ。一騒ぎだ、あはは。」
沛公は、最近項羽から派遣された武将たちと、頻繁に接触するようになった。
接触しているうちに、勘付いた。
項羽は、とてつもない武威を持った君主に、成長していた。楚の武将たちは、ただただ項羽を恐れて、畏まっていた。一年前に沛公が項羽と共に戦っていた頃には、なかったことであった。
(黥布まで、今やあの子に顔も上げられないって言うじゃないか。いつの間に、そんなに大きくなったんだ?、、、いや、あの子には、それだけの素質があったんだな。)
沛公は、項羽が大きく成長したことが、ほんの少しだけ嬉しかった。
だが、ほんの少しだけであった。
それよりも、自分が関中の王になって天下を取るという野望が空しくなってしまいそうで、倦怠感が先に立った。
(いずれ関中には、あの子が乗り込んで来る。戦う?、、、あの章邯を、破った子だ。どう見ても、勝ち目はありそうにないな、、、)
沛公は、早く戦を終わらせたいと思っていた。
そうして、輝く咸陽を一時でも手に入れて、仲間に椀飯振る舞いをして大騒ぎしてやる。
そのような気分に、傾いていた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章