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二十七 武関突破(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

沛公軍は、胡陽という地で秦軍を攻めた。

このとき、番君の別将である梅鋗(ばいけん)と会見したと、『史記』高祖本紀に書かれている。
番君も梅鋗も、卿子冠軍に参加していた将である。その梅鋗が、このとき沛公のところまでやって来たのだ。つまり、沛公はすでにこのとき項羽から何らかの連絡を受けていたと、考えてよい。
高祖本紀によれば、沛公はその梅鋗を胡陽の守備軍と共に、析(せき)・酈(れき)の地で従えたという。その上、沛公は魏人の寗昌(ねいしょう)という者を関中に先遣して秦と接触させたが、寗昌が帰って来ないうちに章邯の降伏が伝わったというのである。
明らかに、これから後の沛公の関中攻撃は、項羽の了解済みのことであったに違いない。七月以降の項羽の行軍は、これから後で書くような問題が途上で起ったとはいえ、ずいぶんゆっくりとしている。それは、七月以降の戦はもはや戦後処理の段階であったからでは、ないだろうか。秦の始末を付けるための、総仕上げがこの先待っていたにすぎない。つまり、武関攻めはベルリン包囲戦なのである。
そのように考えると、その後の展開が分かりやすくなる。どうして、沛公の行動に項羽が激怒したのか?― 項羽が激怒して当然の背信を、これから後の沛公は行なった。沛公の行動は、歴史書には巧みに隠されているが、結果として狡猾に漁夫の利を頂戴したのである。
しかし、全ては一寸先すら見えない乱世の瞬間瞬間の、判断が積み重なった結果のことであった。軍師の張良ですら、薄氷を踏みながら次々に起る事態に対処していったまでの、ことであった。だから、早急に判断せずに、事態のなりゆきを書いていきたい。これから関中で起ることは、後の両雄の決戦において決定的な意味を持ってくるのである。

とにかく、ついに武関であった。
函谷関が関中への表の関門であるとするならば、武関は裏の関門である。
「よくぞ、ここまで来たものだ。関中は、古公亶父(ここうたんぽ)が岐山に国を築いて後、周朝を育んだ土地であった。やがてこの地から西伯文王が出て天命を受け、その子武王は関中に都を定めて天下を安んじた。だが数百年の時が経ち、厲王・幽王の代になりてついに周徳は衰えた。周は西戎の襲われるところとなり、関中を逐われ、以降周朝は天下を治めること能わなくなった。その故地を継いだ秦は、繆公(びゅうこう)の代に賢者百里奚を用いて仁義を行い、天下に覇者の名声を得た。秦の隆盛は繆公より始まり、時代が下ると共に、衰えることを知らなかった。実にこの関中の地は、天下の王を育み続けた土地であるよ、、、」
酈生が、感慨深げに秦嶺の山々を見晴らしていた。
「― 先生、名調子ですな。」
彼の横にいた陸賈(りくか)が、にやにやしながら言った。
陸賈は楚の人で、彼もまた沛公の勢いに乗って、客として馳せ参じた一人であった。
彼もまた、酈生と同じく弁舌を得意としていた。それで、最近は酈生と共に使者として赴く用事が多かった。
陸賈は、言った。
「武関に至りましたが、これからが大変ですよ。これまでの歴史で、東から攻め上って関中を奪った者はいません。それは、関中を守る天嶮が、比類なく堅いからです。武関も、その難関の一つです。簡単に抜くことは、できませんよ。」
だが酈生は、陸賈に言った。
「その関中を占める秦朝が、ここまで衰えてしまったではないか。徳なき者が土地を得ても、王者にはなれぬということだ。そこまで徳を失った、秦朝なのだよ。どうして、天嶮あっても防ぐことができるだろう?、、、孟子曰く、『天の時は、地の利に如かず。地の利は、人の和に如かず』と。見よ、始皇帝が即位して以来の、秦の暴虐の数々を、、、、」
酈生は、熱く語り出した。陸賈は、面白がって聞いていた。彼は酈生よりも少しく醒めて現実を見ていたが、彼もまた儒家の教養を持った人であった。治世は力ばかりでは治まらないという儒家の主張については、酈生と全く同意見なのであった。
所変わって、陣営の中。
張良は、武関攻略のための策を、諸将に披露していた。
「― 力攻めは、こちらに利がありません。秦兵は、地形をよく知っています。無理に関を攻めようとしても、勝てないでしょう。そこで、擬兵を用います。五万の兵に食を持たせて先発させ、山々に旗を立てさせます。関の守兵に、大軍が来たと思わせるのです。」
軍師の説明をここまで聞いて、夏候嬰が言った。
「そこで、調略というわけですな?、、、脅しを掛けて、敵将を揺さぶり陥とす。」
張良は、微笑んだ。
「滕公の、推察どおりです。」
夏候嬰は、戦でさらに活躍して、滕公に封じられていた。すでに、諸侯の仲間入りである。
張良は、言った。
「守将に、使者を出さなければなりません。説得して、陥とす。武関の守将は、もともと屠者の子だということです。それが、功を立てて秦将にまで成り上がったのです。秦歴代の貴族では、ない。ゆえに―」
張良は、敵の性格を意地悪なまでに、分析した。
「― 秦朝に殉じる心は、ありません。利益で釣れば、動きます。商人とは、そういうものです。」
厳しい、言葉であった。
沛公の諸将の中には、灌嬰のような絹商人上がりの者もいた。樊噲などは、まさしく元は狗を殺す屠者であった。今や灌嬰は執帛であり、樊噲は卿であった。二人共に、楚の有爵者である。彼らはもとより、沛公を裏切って利益に釣られる心など、少しも持ち合わせていない覚悟であった。
だが、張良は彼らのことではなく、いったい商人が秦朝に仕えたときにどのような心情であるのかを、冷静に抉り出したのであった。秦朝には、この沛公軍にあるような人間どうしの結合などは、ない。法家思想を至上とする秦朝は、意図的に人間的な組織のつながりを排斥している。組織を動かすのは、賞罰の掟だけであった。武関を守る将軍がどのように有能であっても、肝心の国への忠義が欠けているのである。張良はそれを見透かして、調略の策を立てたのであった。
張良は、軍議に列席する面々を見回した。
彼は、武将の奥に座る二人の男に、目を向けた。
「酈生、陸生― 我が軍のために、説得に行ってもらえますね?」
そこにいたのは、酈生と、陸生すなわち陸賈であった。
沛公軍では、この二人が弁舌の士としては最も優れていた。
張良は、真剣な目を二人に向けて、言った。
「二人は武関に赴いて、何としても守将を口説き落としていただきたい。」
「む、、、」
酈生は、腕を組んで沈黙した。
彼は、仁義の人であった。利で国を裏切らせるような説得は、不本意であった。
張良は、彼の心を見透かして、言った。
「すべては、天下のためです。大義のために、一人の人心をあなたの弁舌の力で動かしていただきたい。あなたならば、できます。」
酈生は、さらにしばし沈黙した。
それから彼は腕を解いて、張良に答えた。
「― 全力を、尽しましょう。」

          

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