«« ”二十七 武関突破(1)” | メインページ | ”二十八 胡亥死すべし(1) ”»»


二十七 武関突破(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

武関に対峙する山々が、楚軍の旗で埋め尽くされた。

張良の計略に従い、守兵を威圧するために作られた景観であった。
その景観を背にして、酈生・陸賈の両名の弁士が、楚軍の使者として赴いた。
彼らは、武関の守将と対面した。
「― 桀紂、仕えるべからず。この言葉が、お分かりでしょうか?」
まず酈生が、守将に説き始めた。彼は、まず正道を説く役割であった。
守将がその意味を分からずにいると、酈生は言葉を継いだ。
「夏の桀王、殷の紂王は、確かに君主として人の上に立っておりました。だが彼らは持てる権力をほしいままに振い、己の快楽だけを求めて人民の怨嗟を顧みることすらありませんでした。紂王のあまりの暴虐を諌めた王子比干は、怒った紂王に心臓を抉られて殺されました。こうして一族の言葉すら聴かぬようになった王のもとを、人は次々に去って行きました。王子比干は、殷の王族でした。ゆえに紂王を捨てるに忍びず、命を捨てて王を諌めたのです。だがあなたは、秦の王族でも何でもない。仕える主が桀紂であるならば、臣は立ち去らなければならないのです。それは、君主の罪です。去る者の、罪ではありません。いったい秦の王朝は、仕えるに値するでしょうか?せっかく天下を統一した始皇帝の為した、残虐の数々。それは、彼に期待した民への、ひどい裏切りではなかったでしょうか?そして、それを継いだ二世皇帝。彼は、果たして天下の君主の資格、ありやなしや?― もはや、暴君のための無駄な戦は、止めたまえ。仕えるに値せぬ桀紂のために命を落とされるのは、あなたの進むべき道では、ないのです。」
酈生は、諄諄と説いた。仁義の正道を説かせれば、彼の説得力は抜群であった。
次に、陸賈が彼と入れ替わりに、説き始めた。
「楚軍を率いる沛公は、降者に寛容です。あなたも、南陽郡の守が諸侯として迎えられたことを、聞いておられるでしょう。この武関を献上するのは、南陽郡守が宛の城市を明け渡した功績と、比較になりません。あなたが武関を明け渡して降れば、沛公は最大の恩賞をもって迎える用意があるのです。共に関中に向かい、咸陽を陥としたまえ。さすればあなたは、楚で沛公に次ぐ功績として賞されることと、なるでしょう。」
陸賈は、利益を説く役割であった。
こうして二人の卓抜な弁士が、正道と利益の両者を交えて説いたのであった。無教養な守将は、彼らにたちまち幻惑されてしまった。
守将は、むむむと唸って押し黙り、考え込み始めた。そうして、少し席を外して、奥に入った。
奥から出てきたとき、すでに彼の心は決まっていた。
守将は、わざと真剣な顔付きをして、言った。
「― 謹んで、先生方のご意見に従います。」
こうして、説得は大成功となった。

夕刻。
二人の弁士が、守将によって鄭重に送り返されて来た。
沛公は、任務に成功した二人を、諸手を挙げて歓待した。
酈生は、満面に喜色を表して、沛公に言った。
「― すでに武関の守将は、門を清めて沛公の入関をお待ちしております。」
沛公は、大喜びで言った。
「そうか、そうか、、、いつ、入関する用意ができるだろうか?」
酈生は、答えた。
「明日の早朝には、関が開くことでしょう。」
沛公も、後ろに控える張良も、その言葉を聞き逃さなかった。
翌日の、早朝。
武関の門が開いた次の瞬間に、待ち伏せしていた沛公軍がわっと乱入して来た。
いきなりの、襲撃であった。
上から言われて戦闘の用意をしていない関の兵卒たちは、応戦することもできずに斬り伏せられていった。
たちまち、関門は占領された。
内から通路を確保したところに、沛公軍が大挙して武関の諸塁に討ち入った。
中から攻められては、難攻不落の関門も持ち応えることができなかった。
武関の諸塁は、次々に陥落していった。
守将が裏切られたことを気付くためには、まだ時が早かった。彼は、わけもわからずに、武関を捨てて壊走していった。
全ては、張良の計略であった。
酈生と陸賈の二人が命を賭けて守将を説得したのは、ただただ守将を油断させることが目的なのであった。
張良は、ひそかに沛公に言っていた。
「― たとえ守将の調略に成功しても、他の士卒たちは従わないでしょう。武関を明け渡せば、もはや関中はおしまいです。関中出身の士卒から成る関の守兵たちは、必ずや将軍の意に背いて我らを襲うに違いありません。守将が油断した時に武関を奪うのに、越したことはありません。」
沛公は、この策を二人の秘密として、配下にも漏らさなかった。そうして酈生たちが守将を説得することに成功した後で、やにわに配下に命じて隠密に兵を動かしたのであった。
沛公は、張良と共に占領された武関に入った。
沛公は、張良に言った。
「子房― お前は、悪い奴だな。」
張良は、答えた。
「勝つためです。戦では、勝たなければ善も仁義もありえません。」
沛公は、言った。
「俺を、勝たせるのか。」
張良は、答えた。
「そうです。」
沛公は、言った。
「俺は、お前にとって、勝つに値する男なのか?」
張良は、彼に答えた。
「秦は、間もなく倒れます。今は、速やかに倒さなくてはなりません。ですがそれから後は、勝利した楚が、どのように国を作るかが、待っています。沛公。私はあなたと共に歩んでいる以上、あなたのために絵を描きます。しかし―」
張良は、このとき後の言葉を、沛公に語らなかった。
彼は、口の中で言った。
(― いずれ、項羽と衝突せざるをえない。)
張良は、この両雄の行く先の対立を、懸念していた。
この沛公と、項羽。
彼は、いずれどちらかの頭を下げさせる道しかないと、密かに思っていた。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章