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三十六 鴻門への道(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

張良子房は、韓軍の将として覇上にいた。

彼は軍師として沛公のために献策し、沛公のために進むべき道を示している。だが、彼の所属はあくまでも韓であった。彼が沛公のために働いているのは、ひとえに天下経営のためであった。この時点では、組織の中で彼の臣となっているわけではない。
その彼の陣営に、深夜に訪れる者があった。
「韓子、、、!」
張良は、長らく別行動を取っていた学友を、迎え入れた。
だが彼が燭台の光で照らし出した韓信の姿は、すっかり憔悴していた。
張良は、韓信に聞いた。
「君は、項羽と共に戦っていた― それが、なんで今?」
韓信は、学兄の顔を見て、弱い声で言った。
「逃げてばかりの、人生です。私は、、、」
そう言って、かすかに笑った。
外は、厳しい関中の冬であった。歯の根まで凍らせる、夜気が支配していた。韓信は、その中を歩き通し、こうして覇上にたどり着いた。しかし、彼のやつれた姿は、肉体の疲労から来るものではなかった。
「とにかく、奥に入りたまえ。聞かせてもらおうか―」
張良は、彼が項軍を去った理由を、聞くことにした。
張良の陣営において、韓信は、直前に起った惨事について語った。
彼は、訥々と目の前で起ったことについて、張良に話した。
「秦兵二十万人が、私の目の前で阬(あなうめ)にして殺されました、、、私は、もはやこのような戦の論理に、付いていけません。もう、私は戦を見たくない。それで、、、逃げたのです。」
「二十万、、、何と!」
張良は、顔を曇らせた。
項軍といえども、楚軍には変わらない。
項羽が秦兵を鏖(みなごろし)にしたことは、秦人にとって決して許すわけにはいかない残虐である。今、沛公は楚の名前によって関中を治めようとしている。だが、項羽の所業によって、もはや楚と秦は相容れない仇敵となってしまった。ひとたびこの残虐が伝えられれば、今後楚の下に秦人が治まることは、不可能であろう。
韓信は、言った。
「項羽の天才は、中国の常識を超えました。我らの兵法すら、項羽にはもはや何の価値もありません。彼は、楚軍と諸侯合わせて四十万の将兵の上に、いまや神として君臨しています。その神が、これから中国を支配しようとしているのです。私には、もう分かりません。私には、どうすることもできません、、、」
張良は、韓信からこれまでの項羽の戦を聞いた。
(恐るべき、男だ―!)
張良もまた、項羽の天才に驚嘆した。
彼のこれまでの知識に、全く当てはまらない英雄の出現で、あった。
彼が楚人の間で神となったことも、しごく当然と言えた。
寒い夜の集まりは、ひときわ寒い空気が支配していた。
韓信は、やがて張良に言った。
「張兄、、、私は、もう淮陰に帰ります。兵法は、もう棄てようと思います。」
張良は、彼に聞いた。
「君は、、、それを告げに、私のところに来たというのか。」
韓信は、答えた。
「その、通りです。私は、もう戦を続けることが、できません。昔あんなに熱中した兵法も、今や胸がむかつくばかりです。」
「韓子、、、」
張良は、彼の失意の言葉に、声を掛けようとした。
しかし、韓信は、遮った。
「私を、止めないでください、、、張兄。」
彼はそう言って、深く頭を下げた。
打ちひしがれた彼の表情は、引き止めることの不可能を、示していた。
「帰るのか、、、君は。」
張良の言葉に、韓信は言った。
「淮陰に、戻ります。お許しを。もう、生涯、戦はやりません。」
韓信は、ううと泣き始めた。
張良は、彼に掛ける言葉を見つけることが、できなかった。
その夜が明けるまでもなく、韓信は、音もなく郷里の淮陰に向けて去ってしまった。
彼が去った朝、張良は、腕を組んで思案するばかりであった。
「去ってしまったか。韓子、、、」
張良の後ろに、彼に付き添う陳麗花が寄り添った。
彼女は、昨晩韓信がやって来て、しかももう去ってしまったことを聞いて、驚き怪しんだ。
韓信が、彼が見てきたことによってすっかり戦を厭ってしまったことが、彼女を不安にさせた。
麗花が、主人に声を掛けた。
「公子、、、あなたは、これからどのようにするのですか?」
張良は、答えなかった。

ちょうどこの頃、事態は急に切迫していた。
項羽は、諸侯の兵を率いて函谷関に向かっていた。
陳平が、平伏して項羽に告げた。
「― 沛公軍が、ついに咸陽に入りました。」
項羽は、その情報を聞いて、驚き怒った。
「我が軍を差し置いて、先に入ったというのか!」
項羽は、新安で秦兵を阬(あなうめ)にするなどして無駄な時間を過したことを、大いに悔やんだ。
「とうとう、沛公に先を越されてしまったか、、、」
項羽は、目を閉じて怒り嘆いた。
だが、その後に前線からもたらされた急使は、項羽を激怒させた。
「― 函谷関が、秦兵によって閉ざされて、通ることができません。」
項羽は、耳を疑った。
「なぜだ!、、、咸陽は、陥ちたのではなかったのか!」
沛公軍からは、何の連絡もなかった。
もともと、函谷関と武関の両方から、共に関中を攻略する予定であった。項羽が各地に王を置きながら大軍を擁して進んでいたのも、関中攻めの戦は敵地の本拠地を占領する戦の総仕上げとして位置付けられていたからであった。ならば、もはや戦は終わったはずである。なのに、函谷関に兵が入って閉じられているという。
「― 沛公は、この私と戦うつもりなのか!」
項羽は、沛公の真意を疑って、歯ぎしりした。
直ちに、黥布が項羽のもとに呼ばれた。
項羽は、黥布に命じた。
「函谷関に、敵が屯(たむろ)している、、、蹴散らせ!」
項羽の命を聞いた、黥布は怪しんだ。
「何かの、間違いではないでしょうか、、、どうして、沛公が敵対するのでしょうか。それに、函谷関は天下一の難関です。我が軍が攻めても、攻めきれるものではありません。」
黥布は、まず沛公と連絡を付けるべきだと、言上した。
しかし、范増はその言を否定した、
「いや!、、、当陽君は、直ちに函谷関を攻めなければなりません。日を措けば、ますます守りが強化されるでしょう。項王よ、沛公に真意を糾すのは、関を破ってからになさいませ。」
范増は、これは沛公のしわざであると、確信していた。
(沛公は、必ずや関中を我が物にしようとしている― もはや、項王の敵。)
范増の目は、すでに沛公との対決に向けられていた。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章