范増の進言は、正しかった。
もし項羽がだらだらと函谷関の前で時を過していたならば、その間に沛公は関中を完全に掌握していたであろう。まだ沛公の体制が十分でないうちに、函谷関は急襲された。
「― 関の守兵からどのような遅延の申し出があったとしても、一切受け入れてはならない。全て、時間稼ぎの虚言であると、心得よ。」
范増は、当陽君黥布に念を押した。
范増は、自分が蒔いた種がこれほどまでに大きくなったことを、今や後悔していた。
沛公を章邯攻めの卿子冠軍に入れなかったのは、彼の策であった。楚の総力を挙げて進む卿子冠軍に対して、後方に別働隊が必要であると思ったからであった。だが、秦が滅亡した現在、別働隊を率いる沛公は最も警戒すべき人物となった。これから始まる楚帝国は、誰が支配するのか。すでに、范増はそのことを考えていた。
(実力者は、二人相並ぶことはできない。不倶戴天とは、仇敵であるゆえに争うのではない。天下に二つの勢力が相並ぶゆえに、敵とならざるをえないのだ。)
それが、権力の力学というものであった。范増は、いつの間にか大勢力を築いて咸陽に入った沛公の存在が、日増しに恐ろしくなっていた。諸侯四十万の将兵は、すでに項羽の奴僕であった。だが、沛公はいまだに項羽の奴僕ではない。
范増は、項羽という青年の将来について、大変に危惧していた。
最近の項羽は、度量を広く持つどころかますます周囲を軽蔑するようになった。もはや、彼の心は軍中の誰にも止められなかった。そうして、秦兵二十万人を虐殺した。范増は、彼の虐殺を止めなかった。止めることは、できなかった。今は彼の覇業を進ませるより、他の道はない。范増は、新安の虐殺の後でかえって己の思いを固くした。己の命ある限り、項羽という若き覇王と共に進まなければならぬ。だがそのためには、彼の患いとなる敵を除かなければならない。
(わが公子は、万人に長ける才を持っている。だが、その才に人は付いていけない。沛公がいれば、公子を内心で嫌う者たちの逃げ場を作ってしまうだろう、、、沛公には悪いが、公子のために死んでもらうより、他はない!)
亜父范増は、項羽のために心を暗く燃やした。
函谷関では、激しい戦が始まった。
范増の言に従って、黥布は相手からの言葉を一切聞くこともなく、一挙に力で攻めた。
秦軍を打ち破った、楚の精鋭であった。その勢いは、恐るべきものであった。
それに比べて秦軍の動きは、ぎこちないものであった。
兵卒は秦の守備兵であったが、指揮官は楚人であった。秦の兵制は、楚のそれとはあらゆる箇所で全く異なっていた。
沛公軍からやって来た中堅の軍官は、軍吏から細かく指示すべき内容を問われて、辟易してしまった。
「― 歩兵を何人、弩兵を何人、騎兵を何人配置するべきでしょうか。陣形は、どのようにするべきでしょうか。日が暮れると共に、戦闘を中止するべきでしょうか。撤退は、即座に斬とするべきでしょうか。それとも、城壁の内までの撤退は認めるべきでしょうか。予備の部隊は、何人をどの位置に配置して置くべきでしょうか、、、」
楚人の指揮官たちは、問われた内容のあまりの詳細さに、苛立って言った。
「そんなことは、お前らが目で見て判断しろ!楚軍では、軍官は行って戦えと叱り飛ばすのみだ。わかったか!」
だが、軍吏は冷たい目を向けて、返した。
「― しかし我らは、秦軍です、、、」
秦では、彼の上に立つ中堅軍官のなすべき仕事は、周到な戦闘の計画であった。個人の武勇を廃して法により動く秦軍には、勢いだけで戦うなどという命令の内容は存在しなかった。楚の軍中では通用した軍官の大まかで配下任せの指令も、秦軍では通用することがなかった。秦の軍吏から見れば、楚の軍官たちは一番上の将軍にだけ許されるべき大方針の決定を、下位の者まで行なっているようであった。だが楚人たちから見れば、秦の兵卒は上から言われなければ何も出来ない愚か者なのであるかと、軽蔑するばかりであった。
二つの相異なる原理の組織が急に合わされたために、上下の意思疎通はひどく混乱した。
その間に、黥布の軍は前に前にと進んでいた。
秦の正面を守る、天下第一の難関である。これまで関東の六国が連合して攻めても防ぎ切ることができたように、守兵が手順どおりによく守れば何十万人が攻めても抜かれる心配はないはずであった。だが、隘路を塞ぐ防御の備えは、有効に機能しなかった。敵兵が進めば、上から巨石を落として踏み潰すはずであった。たとえ生き残ったとしても、次には弩兵の一斉射撃が待っている。それを突破しようと強行したならば、いつの間にか背後に伏兵が回り込む。こうして、敵兵は空しく壊滅する。そのような守りが、何段にも構えられていた。敵が通ることは、不可能なはずであった。
なのに、函谷関の守りは一枚一枚と剥がされていった。攻める楚兵の断固とした勇猛さに、守る沛公軍は乱れたまま押し切られていった。
ここに送り込まれていた沛公軍の軍官の一人が、戦況を見て思った。
「項羽の軍が、こんなに強かったとは知らなかった、、、沛公軍など、比較にならん。」
左司馬の地位にある、曹無傷という人物であった。彼は、初めて見た項羽軍の、あまりの勇猛さに驚くばかりであった。彼が指揮に戸惑っている間に、函谷関はすでに半ばまで抜かれていた。
曹無傷は、思った。
「もうだめだ。函谷関は、陥ちるだろう。項羽が関中に入れば、沛公軍などひねり潰されるに違いない。」
彼は、暗澹とした思いに駆られて、城塞の内に引き篭もった。
夜。
関の正面で、巨大な怒号が起った。
曹無傷は、震え上がった。
「もう、突破に来たのか、、、!」
彼が駆け付ける前に、全ては終わっていた。
夜襲に出た敵軍は、彼の籠る城塞の前を突破して、そのまま通り過ぎて行った。
函谷関は、破られた。
項羽の前にも、関中の平原が広がった。
関中で、新たな対決が近づこうとしていた。
― 第五章 楚滅秦の章・完
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