«« ”三十六 鴻門への道(2)” | メインページ | ”一 前夜(2) ”»»


一 前夜(1)

(カテゴリ:死生の章

知兵之章-楚漢太平記 第二部


季節は、酷寒の十二月であった。

この一年で、中国の天下は文字通りぐるりと回った。
強かったはずの秦はもろくも敗れ、立ち直ることもできずに崩れ去り、ついに楚に降伏した。
秦を破ったのは、覇王の項羽。彼は、翼を得た前代未聞の若き天才であった。
秦を降伏させたのは、沛公劉邦。彼は、一亭長からのし上がった稀代の風雲児であった。
今、両者は共に、秦が倒れた後の関中にいた。
しかし、楚国の旗の下に戦った項羽と劉邦は、この関中で対峙したままであった。
項羽は諸侯の将兵四十万を率いて、戲(き)の西に布陣していた。
沛公は十万の将兵と共に、覇上にあった。戲も覇上も、秦都咸陽への入り口にある。なのに両軍は共に咸陽に進まず、その東郊に布陣したままで、睨み合っていた。
項羽は、函谷関が閉ざされていたことを怒り、黥布に命じて力で突破させた。函谷関は混乱のうちに開かれて、項羽軍は関中に殺到した。そうして、戲にまで至った。戲の南には驪山(りざん)があり、麓には完成してまだ日も経たない始皇帝陵があった。その驪山を隔てた向う側が、沛公軍の屯(たむろ)する覇上であった。両者は山を隔てて互いに見えぬまま、数日を過していた。過ぎる冬の日々は、まるで空の下に何事も起きていないかのように静かであった。だが、その間に両者の不信と邪推は、危ないまでに深まっていた。暴発は、間近に迫っていた。
覇上に、夜が来た。
覇上の一角に、韓王国軍の陣営があった。韓王国は、沛公が旧韓の地に進撃した際に呼応して、軍を合流させた。それ以来、韓王国軍は沛公軍と行動を共にしている。
陣営の中に、ひそかに馬を走らせた影があった。
馬の主は、韓の申徒(しんと)に目通り願いたいと、申し出た。
韓の申徒とは、張良子房のことであった。張良は、韓王に代わって自ら軍を率いて、この関中に入った。韓を沛公の傘下に置かせたのは、すべて張良が策したことであった。
張良は、急に訪れた客に応対した。
客は、彼を見るや否や、直ちに告げた。
「― 明日、項籍は兵を動かします。覇上に向けて、総攻撃です。」
張良は、客の言葉に眉をひそめた。
来るべきものが、とうとう来たのであった。
張良は、客に向けてまずは感謝した。
「左尹(さいん)。よくぞ、知らせてくださいました―」
張良は、旧知の仲である彼に、深く拝礼した。
客は、項伯であった。かつて下邳の時代に、張良に助けられて一時行動を共にしていた。彼は項羽の季父(おじ)に当り、今は楚の左尹の職を得て甥の軍中にあった。
項伯は、何を悠長なと怒鳴りたいがごとくに、息せき切って言葉を返した。
「私がこうして馬を走らせたのは、あなたの命が危ないからです。我が甥は、今日沛公を攻める決断をしました。明日には、黥布以下全ての将兵がこの覇上に殺到して来ます。兵数は四十万、その上に我が軍はかつてない程の強兵に化しております。もはや、天下に当るところはございません。沛公軍は、直ちに亡ぼされるでしょう―」
張良は、言葉を遮った。
「自軍を称えながら、危いと心配するのは、あなたは何とも奇妙ですな。」
項伯は、張良の言葉に機嫌を損ねた。
「― 我が甥の強さは、もはや私の常識すら超えているのです!彼は、まさしく天才です。親族としては誇るべきですが、しかし恩あるあなたが彼と敵対していることに、私は耐えられない。だから、こうして急ぎあなたの元に走ったのです。あなたは、韓の所属です。急ぎ、韓軍は沛公から離れられよ。我が甥に討たれるのは、沛公だけです。他国は、沛公に従っていただけです。沛公と共に、亡びる道を歩まれるな。私は、それをあなたに言いに来たのです、、、」
今日、項羽の陣営に、沛公軍からひそかに内通の使者があった。
使者の主は、左司馬の曹無傷であった。
使者は、このように告げた。
「沛公は、関中の王となって子嬰を丞相としようと企んでおります。珍宝は全て、彼の所有となりました。」
項羽は、使者の言葉を聞いて、怪しんだ。
「曹無傷は、何ゆえに私に進言に及んだ!」
使者は、噂に聞く項羽の威勢に、震え上がった。
使者は、舌をもつれさせながら、言った。
「そ、、、それは、沛公が天下に臨もうとしているからです。彼は、非分の野望を持っております。それで、彼は関中を得て秦を手なずけ、項王を防ごうとしたのでございます。我が主は、項王に逆らう意思など毛頭なきがために、こうして進言に及んだので、、、ございます。」
項羽は、思った。
(沛公は、なぜ私に弁明に来ないのか、、、!)
彼が関中に入ってからも、沛公は何一つ連絡を寄越して来なかった。軍を覇上に置いたままで、動かなかった。それで、項羽も警戒して軍を咸陽の東に留めざるをえなかった。今、左司馬の職にある者が、沛公に野望ありと進言して来た。もしそれが正しければ、戦うより他はない。項羽は、歯ぎしりした。
だが、曹無傷の進言を受けても、項羽は即決をためらった。まだ、彼には沛公の真意に疑いがあった。以前には、共に兵を率いて戦った同士であった。秦を攻める前には、彼と義兄弟の盟約までした。もはや自軍の誰も眼中に入らない項羽であったが、それでも沛公だけはいまだに心の底に引っかかっていたのが、このときの彼の真実であった。
亜父范増は、今日も項羽の側に控えていた。
范増は、項羽が決断できかねているのを、見て取った。
(肝心のところで、甘い。必要のないところで、優しい。要するに、若い。若すぎる、、、)
歯噛みしたのは、范増も同じであった。
范増は、項羽の後ろから言った。
「― 沛公は、殺さなければなりません。迷わず、攻められよ。」
項羽は、珍しく決断のない声で、低くつぶやいた。
「しかし、、、彼は、人物だ。」
范増は、言った。
「さよう。彼は、志があります。関中での所業を見ても、それは明らかです。」
范増は、沛公が咸陽に入りながら掠奪もせず、降伏した百官を従えてしまった業績を知って、改めて恐れた。
(恐るべき、男、、、)
恐るべき点は、これらのことが項羽に決してできないことだからであった。ゆえに、沛公は生かしておいてはならない。范増は、改めて確信した。
范増は、言った。
「彼には、天命が降りているのかもしれません。咸陽を得たのも、そのためではありませんか?」
項羽は、振り返って聞いた。
「天命?、、、天命?」
范増は、答えた。
「さよう、天命です。あなたには、天命は降りていなのかもしれません。」
項羽は、震えて怒り始めた。
「― 私は、敗北すると言うのか!私は、見捨てられる運命だと、言うのであるか!」
范増は、彼が怒り始めたことを、ひそかに喜んだ。
「ゆえに、沛公を殺さなければならないのです。沛公は、あなたに代わって天下を治める運命にあるようです。あなたは、それを防がなければなりません。それは、あなたのためなのですよ、、、項王!」
亜父は、項羽をきっと見据えた。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章