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一 前夜(2)

(カテゴリ:死生の章

(― あなたが覇王の道を進むために、必ず沛公を除かれよ!)
亜父范増の叱咤に促されて、ついに項羽は全軍に号令する決意をした。

彼は、側近に意思を告げた。
「明日、全軍の士卒を饗応して慰労しよう。彼らに、私からこれまでの戦果を感謝することにしたい。そして、出陣だ。これより関中の賊を、討伐する、、、沛公軍は、楚を裏切り秦に付いた、逆賊である!」
彼の前に居並ぶ者たちは、平伏して承知した。
項伯は、甥の決断を聞いてうろたえた。せめて張良だけでも災厄から逃がそうと考えて、急ぎ馬を走らせた。そうして、夜に張良の陣営にいた。
項伯は、張良を必死に説得しようとした。
だが、張良は首を縦に振らなかった。
彼は、言った。
「私は、韓王の代理として沛公に付き従い、関中に入りました。今、逃げることはできません。」
項伯は、眉をひそめた。
「公子!、、、いくらあなたの知をもってしても、勝てません!留まれば、死です!」
張良は、莞爾(にこり)として語り始めた。
「― 沛公が韓の地に入って以来の、今までの道。彼に宛を取らせ、謀を用いて武関を破らせ、藍田にて秦を降し、秦王子嬰の降伏を受け入れ、そして咸陽に入っては掠奪もさせず、百官を収めて兵を帰させました。これらは全て、私が道を示したことです。まことに沛公が関中を得たのは、私の責任なのです。なのにどうして、私が沛公を見捨ててよいものでしょうか?」
思い返せば、彼は沛公に大きな力を与えてしまった。
この数ヶ月の戦で、張良は秦を倒すために沛公に知を与え続けた。沛公は時として彼の策に従わないこともあったが、結局は受け入れて勝利を収めていった。咸陽に入って沛公が賊軍の振る舞いに転落しようとした際には、樊噲と共に体を張って彼を諌めた。沛公は、ついに思い直した。張良の進言を容れたために、彼はこれまで成功できたのであった。
だが今や、項羽によってその成功が空しくなろうとしている。ここで張良が逃げたならば、彼はまるで沛公を望楼の高みにまで登らせておきながら、降りる梯(はしご)を外すようなものではないか。張良は、己のために狡(ずる)く逃げるようなことが、できる人間ではなかった。
張良は、言った。
「私は、逃げません。沛公と、共にあります。あなたの勧めに従うことは、できません。」
項伯は、嘆息した。
「公子!」
張良は、言った。
「楚王は、先に関中に入り定めた者を関中の王とするという約束をしたと言うではありませんか。沛公は、正しく一番先に関中に入ったのです。彼が関中を治めようとしたのは、逆賊の所業ではない。もし沛公が項王に敵対する意思がないとすれば、項王は彼を殺す名分がないのではありませんか?」
項伯は、口ごもった。
(それは、分かっている。分かっているが、、、)
張良は、彼の言葉を先取りして、言葉を続けた。
「だが力の上では、到底沛公は項王に敵うべくもない。ゆえに、沛公は項王に従うより他は、ありません。しかし、これまで彼の言い分を項王に会って伝える機会を、得られませんでした。互いが不信のまま、陣を構えて睨み合っていたのです、、、今、最後の時になって、ようやく機会がやって参りました。」
項伯は、張良が何を言いたがっているのか、測りかねた。
張良は、不審がる項伯に向けて、言った。
「左尹(さいん)、、、私を哀れと思うならば、ここで一働きしてもらいたい。」
彼はそう言って、項伯の肩を強く叩いた。そのとき項伯に依頼する張良の目は、鋭く光っていた。
項伯は、張良が彼に何を依頼しているのかを、察知した。
「わ、、、私に仲介せよと、言うのであるか、、、」
張良は、言った。
「あなたは、項王の季父。沛公に謝罪の意思があることを、どうか項王に告げてください。沛公は、項王に頭を下げるでしょう。私が、必ず下げさせます。どうか、沛公の命を助けてやってください。時は、迫っています。もはやあなたにしか、沛公と項王の間を取り持つことは、できません。」
張良は、項伯の肩をぎゅうっと握り締めた。
項伯は、張良に言った。
「どうしても、逃げぬと覚悟されたか、、、」
張良は、答えた。
「後ろには、逃げません。項王の前に、逃げるのです。項王の懐に飛び込んで、かの天才と火花を散らす。それが、唯一の生きる道なのです。」
陣営の火が、ゆらめいた。
人影が、中に入って来た。
「― 沛公の陣舎に向かう用意が、出来ました。どうぞお二人とも、お乗りなさいませ―」
入って来たのは、張良の従者の陳麗花であった。
項伯は、彼女のことを実に久しぶりに見た。
「陳氏、、、あなたは、変わらず公子と共におられたか。」
麗花は、にこやかに答えた。
「私は、常に公子から離れません。」
項伯は、下邳の時代のことを思い出した。それほど遠い時代ではないのに、今や全てが変わってしまった。今、彼ら三人は下邳からはるか遠くの関中でこうして顔を合わせた。項伯は、それがとても奇妙な事のように思えた。しかも自分たちは、今天下の形勢を決めかねない重大な瞬間に、役目を振り分けられているのであった。
麗花に伴われて、張良と項伯は陣営の外に出た。
項伯は、言った。
「私を、沛公に会わせるのであるな、、、」
張良は、答えた。
「沛公の言葉を、何としても項王にお伝え願いたい。明朝、沛公は項王のもとに向かうでしょう。そして、この私もまた。」
張良は、項伯を逃げられない地点に追い込んでいった。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章