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一 前夜(3)

(カテゴリ:死生の章

沛公の陣舎では、男たちが暗く沈んでいた。

頼みの函谷関は、わけもなく突破された。今やここからわずか一日の行程に布陣する、項羽の大軍。
「― 四十万。」
曹参が、言った。
「四十万?」
数に弱い周勃が、実相をはっきり掴みかねて言葉を繰り返した。
灌嬰が、発言した。
「戦は、数だけではない。奇襲すれば、あるいは、、、」
夏候嬰が、首を振った。
「あの章邯を正面から破った、項羽だ。飛び込めば、死にに行くようなものだ。」
もはや、何の策もなかった。前に進めば、猛虎に食いちぎられるだけであった。だが後ろに引けば、賊軍であることを認めるだけであった。いずれにしても、将来はない。
灌嬰が、頭を抱えた。
「― 妙な期待を持ったから、こんなことになったんだ!、、、しょせん、関中を得ることなんか、無理だったんだよ。咸陽で掠奪もせず、郷里に人気を取って、皆で浮かれていた。その結果が、これなのかい!、、、軍師のべんちゃらに乗って関中に進んだから、こんなことに、、、何という偽軍師だ、張良子房!」
彼の怒りは、軍師の張良にも向けられていた。軍師は、沛公の望み通りに勝つ道を示しただけであった。彼の策がことごとく当ったために、沛公軍は大勝利を得た。軍師がいなければ彼らが関中に入ることも、できなかったはずであった。だが灌嬰はそのようなことなど忘れて、ひたすら今の窮地に陥らせた罪に怒っていた。
「樊噲、、、お前にも、罪があるぞ。公を、その気にさせたのだからな。」
灌嬰は、一同の後ろで黙然と座っていた、樊噲に目を向けた。
彼は、いつもの通り一言も発することがなかった。
灌嬰に難じられて、彼は視線を返した。
「、、、」
怒りも、動揺も見えなかった。何を考えているかも、余人には分かりかねた。しかし、彼の心中には確かに忠義があることが、最近の咸陽での出来事で皆が知るところとなった。彼は、おそらく死を覚悟しているであろう。灌嬰は、彼の静かな視線を返されて、自らの軽口を恥じて言葉を続けなかった。
周勃が、言った。
「公は、、、何をしておられる?」
廬綰が、答えた。
「奥に、籠りっきりだ。」
沛公は、己の野望が簡単に挫けてしまったので、すっかり意気消沈してしまった。関中を得られないどころか、もはや滅亡の危機であった。彼はもう少し長く、項羽と渡り合えるはずだと思っていた。それが、あっという間に函谷関が突破されて、全ての目論見が雲のように消え果てしまった。彼は、ここ何日か戚氏を奥に引き込んで、空しく痴情に耽っていた。
一同は、言葉を失って、暗い気分に浸った。
そのとき、陣舎に来客が告げられた。
「韓の申徒が、お見えになられました―」
張良子房が、やって来た。
来客の伝えを聞いた一同の反応は、冷ややかなものであった。
入って来た張良に対して、曹参が言った。
「― 必勝の策でも、持ってこられましたか、、、」
彼はそう言って、顔をしかめた。
張良は、答えた。
「必勝では、ありません。しかし、命を賭けた勝負です― 沛公は、どちらに?」
廬綰が、言った。
「奥に籠ったままで、出て来られぬ。」
張良は、彼に言った。
「すぐに、連れ出していただきたい。」
夏候嬰が、言った。
「項羽に、勝てるのですか。」
張良が、答えた。
「勝てません。」
夏候嬰が、目をつり上げた。
「勝てないならば、勝負にならないでしょうが!これまでずっと、我らはあなたの策を信じてきた。信じたから、あなたの言うとおり咸陽で掠奪もしなかった。そうして、今勝てないと言う。信じた我らは、まんまと騙されたわけだ。あなたは、まことに我ら全員を亡ぼす、名軍師でござりましたなあ!」
夏候嬰の苛立ちに、しかし張良は動じることがなかった。
一瞬の、厳しい沈黙が過ぎた。
その後、奥から声が掛かった。
「― 関中を取ろうとしたのは、俺がしたことだ、、、軍師を、責めるんじゃない。」
沛公であった。
廬綰に言われて、彼はついに顔を出した。
出てきた沛公は、衣服も乱れて髯も伸ばし放題であった。彼の足取りは乱れ、表情は覇気もなく暗く沈んでいた。
張良は、沛公に平伏して、言った。
「公よ。項軍は、明日を期して総攻撃に移ります。内部からの情報を、得ました。」
一同に、衝撃が走った。
沛公は、よろめく足で、どかりと座った。
「そうか― とうとう、死ぬ時が来たか、、、子房、お前と韓軍は、逃げるのであろうな。」
張良は、沛公の問いを聞かずに、言った。
「公よ。明朝、私と共に、命を賭けられよ。公と全軍が生き残る道は、明朝項羽と直接会って許しを得る他に、ございません。本日、私は使者となるべき者を、ここに連れ立って参りました。公よ。彼に項羽との仲介を依頼されよ。そうして、我らだけで項羽の元に乗り込んで、彼と話を付けるのです。天才の彼と戦を交えても、決して勝てません。むしろ彼の中にある人間の情を揺さぶって、活路を見出すのです。あなたにならば、それが出来るでしょう、、、?」
張良は、そう言って顔を上げた。
彼もまた、天下の人士であった。その表情は、まことに涼やかであった。彼の静かな気迫に、厳しい視線を向けていた一同は、沈黙せざるを得なかった。
沛公は、目を空洞のようにしながら、張良を見つめた。
それから、ぼそりと言った。
「お前の言うとおりだ、子房。俺は、明日に賭けるようにしよう、、、仲介のお方を、ここにお連れくだされ。」

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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